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立ち読み  
編集後記  第60巻10号 2012年10月
 

▼昔、大学生になり立ての頃、コミュニケーションとパーソナリティについて学んだ際に、人はいくつかの「仮面」を持つと習った。この時は、「仮面」は重層的な、あるいは「時と場」で使い分けることができるようなどちらかといえば便宜的なものと思っていた。当時、まだワープロも無く、コピー機が最新機器であり、授業法、授業ノートのあり方が変わり始めていた頃である。
 現代、ICT分野はあっという間に様変わりし、PCやiPadが授業に必携となりつつある。個人間でもインターネット経由で学生同士、あるいは遠く離れた家族に料理の仕方など気軽に尋ねるなど、相手を身近に感じることができる。こうした変化に伴い、情報や知識の共有、情報検索、信頼性、発信力、表現力などの技能が必要とされている。特に、選別力は大事で、途上国ではネットのほうが、検閲のある新聞より重要で信頼おける情報の発信源となっていると、留学生が話してくれた。
 こうしたICTの変化に対して、社会や教育はモラルや価値観だけでなく、コミュニケーション・スキルにしてもそのスピードについて行けていないように思える。話はそれるが、先日、数式を手書き入力すると解が得られるスマートフォンが発表され、これが入試でトイレで使われたらと同僚と青ざめたばかりである。

▼今回の特集の「変化するネット環境と子ども」について気になるのは、現実世界とネットでの「仮面」の使い分けが、重荷に見えることである。Eメールを初めて使いだした頃は、自分の意図が伝わるかとても心配だった。実際トラブルも起きたし、次第にスキルが上達し意識しなくなったが、いまでも感じることはある。「仮面」なら外せば良いのだけれど、一旦入り込んだネット「世界」は自分の居場所となる生活世界とつながり抜け出すことは難しいようだ。しかも、何か「言いたい」ことがあるから発信した言葉は拡散し、仮面の自分の死活問題になる。

▼本来、自分のことを話すのが苦手な子どもは、他者との距離感やスキルを学校や対人関係の経験から磨いてきた。間違って当然、叱られて当たり前。しかし、ネットの中では葛藤や「言いたくない」ことは出てこない。また、自分も相手も悪く言わないか、匿名の場合は正反対に、へりくだらず、相手を誉めるかけなすか。現実世界ですら、「まあそうですね」と無難なオウム返しでごまかし、相手が反対のことを言うとそれにまた乗っかる。
 ネット社会の価値観は単純なものとなりやすい危険性があるようだし、発言の失敗を許容したり、それを成長させるような教育的な機会は少ないのだろう。となると、いっそ学校の授業もネットでやって、「それじゃ駄目だ」とか「先生そんなこと言っても」とかの「教育漫才」でもやって機会を増やすしかないのだろうか。間違っていようと正しかろうと、自分の言葉を探し、ぶつけ、反芻し、改善する経験がなければ、子どもの中からの問題提起は望めない。

 

(竹熊尚夫)
 
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