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立ち読み  
編集後記  第58巻5号 2010年5月
 

▼最近、ちまたで言われる以上に「支え」を必要としている子どもたちが増えているように思えてならない。それは、『教育と医学』でも繰り返し特集してきたように、かつて“教育上特別な取り扱いを要する児童生徒”とされた子どもたちではなく、多くは、通常の教育環境で生活している子どもである。知能検査を行ってみても発達水準は正常域、特に大きな能力的な偏りもなく、社会的常識や道徳について尋ねてみても難なく答え、むしろ、こんなことも知っているのかと驚かされるほどの知識を持ち合わせる子どもも少なくない。

▼しかし、この子たちの親は心底悩んでいる。父も母も蓄積された知識とは裏腹にうまく社会生活がおくれていないことへの心配を抱えている。これまで、こうした子どもたちに対するいろいろなアプローチ方法が検討されてきた。生活環境を構造化し、目で見てわかる情報や手がかりを提供し、行動指針をスケジュールとして示し、不必要な刺激は排除し、適切なご褒美を成功報酬として与えるといった手続きは、もはや発達障がい児支援の原則として様々な指導技法に共通して語られるようになってきている。一方で、原理原則だけではどうしてもうまくいかないケースが増えている。何が必要なのだろうか。

▼こうした子どもたちと関わってみてひとつはっきりと感じている印象がある。それは、なにか「いらいらしている」ということだ。精神医学的には、子どものいらいら感は子どもの「うつ病」の徴候であり、併発症状や二次障害として注意を要することが重ねて指摘されてきた。その通りである。しかし、このいらいら感は、ひょっとして二次障害や併発症状ではなく、むしろ主症状ととらえ、何らかのサポートや支援の対象としてまず考慮すべきことなのではないかと、筆者は考えるようになってきた。

▼例えば、子どもたちは、心から友達を欲している。休み時間の度に図書室に向かい、虫や動物の図鑑に見入っている子どもは、広汎性発達障害の特徴である興味・関心の偏りによって図鑑にこだわっているのではなく、図鑑を見るしか時間の過ごしようがないのである。運動場に出向いても一人で砂場に座り込んでいる子どもは、そのように過ごすしか気持ちのやり場がないのである。図鑑に没頭する子どもでも、砂いじりにふける子どもでも、同年代の仲間と接する機会を提供するとそれは楽しそうに遊ぶし、その姿は発達的偏りなど忘れさせてしまうほどの子どもらしさである。診断基準に書かれている「表情や身振りによってコミュニケーションを補おうとしない」など全くあてはまらない子どもの姿に戻る。

▼要は、「支え」を発達障害の視座から見るのか、子ども性の視座から見るのかという視点の転換が今必要なのではないかということだ。おしゃべりや鬼ごっこの相手がいなきゃ、いらいらしても当然だ、やつあたりもしたくなる、という専門家らしくもない思いこみが私の今の信念になりつつある。

 

(遠矢浩一)
 
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