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立ち読み  
編集後記  第57巻1号 2009年1月
 

▼教室は、よく考えるととても不思議な空間です。例えば、教師と子どものやりとりひとつとってみても不思議なものです。教師は子どもに質問します。子どもはその質問に答えることが求められます。子どもが答えたことが正しいかどうか、教師は判断して評価します。子どもの答えが正しいかどうか分かるのですから、教師は答えを予め知った上で質問していることになります。しかし、普通の生活の中で、私たちが質問するのは、何かが分からない時です。分からないから質問して、相手がそれに答えてくれたら、感謝する。通常のコミュニケーションではそうなるでしょう。
 しかし、教室では、先ほど述べたような、いわば教師中心のコミュニケーションがこれまで当然のように続けられてきました。それは、教師中心のコミュニケーションが教室において多くの子どもを相手に一斉に教えるための有効な方法だったからです。そして、学校や教師が無条件に権威をもっていた時代には、とりわけスムーズにこのやりとりが成立していたといえるでしょう。
▼さて、授業崩壊や学級崩壊という現象があります。これは、今や学校や教師に無条件に権威が与えられる時代ではなくなり、子どもたちが教師に一方的に試される存在であることを拒否し、教師中心のコミュニケーションが壊れてしまう教室が生まれてきたということではないでしょうか。一時期に比べ授業崩壊や学級崩壊がマスコミに大きく取り上げられることは少なくなりました。それは、授業が成り立たないという現象が無くなったということではなく、むしろどの学校、どのクラスでも起こりうる可能性のある日常的な現象になったからでしょう。
▼本号の特集では、教師の児童生徒への関わり方を根本的にとらえ直し、これからの関わり方の手がかりを探っています。私は、近年の学習指導要領改訂によって、平成元年に新設された小学校低学年の生活科や平成十年に小学校三年生以上に導入された総合的な学習の時間といった、いわば経験主義的な教科や領域の教育実践は、教室の中にそれまでにない新しいコミュニケーションのあり方をもたらす可能性をもったものだったのではないかと考えています。
 というのも、そこでは教師が予めこれという唯一の正解をもつことができず、子どもたちと一緒に考え合っていかねばならないからです。そういった新しい形のコミュニケーションを子どもとの間で豊かに展開できる教師は、実は子どもたちの中に教師に対する十分な信頼と「やっぱり先生はすごいな」という権威とあこがれを醸成させ、従来からある教師中心のコミュニケーションをも一層スムーズに展開できるのではないでしょうか。
 また、逆にそういった新しいコミュニケーションを子どもとの間で豊かに行えない教師は、たとえベテランで教える技術には長けていても、メリハリをもって子どもをしっかりと指導できない状態に陥ることがしばしば生じてしまうのではないでしょうか。

(田上 哲)
 
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