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編集後記  第56巻12号 2008年12月
 

▼心理療法の必要性が様々な領域で認識されるようになり、筆者も最近、児童養護施設と関わる機会をもっている。そして感じるのは、児童養護施設における子ども支援のあり方が、今、最も解決されるべき社会問題の一つであるということである。児童虐待の被害児を主として、様々な事情で家庭での生活が困難となった児童が集団で生活をしている。児童虐待と発達障害の関連性については近年議論されるようになってきた。確かに施設で生活している子の中には、多動・衝動性が強く、上手に集団生活のルールに従うことができなかったり、人の気持ちの理解が難しいために容易に他児に不快を感じさせてしまう行動をとる児童がいることは否定できない。養護施設も、一つの建物の中で五十人、六十人といった多くの子どもたちが共同生活をする旧来の大舎制から、建物そのものを分けた中で母親、父親的な役割をとる職員と家庭により近い環境で生活をする小舎制へ移行・整備することの必要性が指摘され、徐々に構造変化は起こりつつある。しかしながら、それでも子どもたちの発達障害“的”行動に関する施設職員の悩みは尽きることはない。対応に手を焼き、子ども福祉に関する専門的機関や医療機関に現場職員は子どもをつれて相談に行く。そうすると、多くの場合、「ADHD」の診断名を持参して帰ってくるのである。
▼不思議なことに、ADHDの診断名がついても、現場職員としては、実は大きく動揺することはない。ADHDなどの用語は、今や福祉、教育の領域には職員研修会などを通じて浸透してきており、職員は発達障害的な診断の可能性を想定して相談に出向いているからである。問題はそうした行動特徴にどのように対応していけばよいか、とりわけ、大舎制の施設で、学童六名に一人の職員配置(三交代制で考えれば、学童十八人に一人の職員配置の実態)という最低基準のもと、どうした手だてをとればよいのかということに尽きるのである。
▼しかし、問題はそれほど容易ではない。被虐待児童は一人の例外もなくなんらかの「愛着」の問題を抱えている。愛着体験の欠如は、ハーローの実験以来、不可避に行動上の問題を引き起こすと言われる。現場職員は、ADHDという診断的事実より、愛着体験に焦点を当てて子どもたちに関わろうと努力をするのである。つまり、「愛着体験の欠如によるADHD」という非常識的ではあるが、理にかなった常識が施設の職員の中には疑いなく広がっている感がある。筆者自身も専門的立場にありながらそうした考え方に強い共感を覚えることが少なくない。ADHDが先か、愛着体験が先かというトートロジーは現場職員の陥りやすい深刻な悩みなのである。
▼児童養護施設、児童自立支援施設、情緒障害児短期治療施設といった児童福祉施設における発達障害“的”行動の問題は、今、専門家がより真剣に取り組まなければならない課題であることは間違いないが、いったいどこから手をつければよいのだろうか……。

(遠矢浩一)
 
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