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立ち読み  
編集後記  第55巻1号 2007年1月
 
▼今回の特集のテーマは、「Noと言える子ども」と「思いやり」である。一見、異なったトピックのようだが、考えてみると非常に深いところで繋がっている。
▼その前にちょっと横道にそれよう。実は以前から頭をひねっていることがある。それはトラウマという言葉の定義だ。トラウマは心理学や精神医学の書物で心的外傷と訳されている。ところが私の調べる限り、心的外傷それ自体を定義したものはない。では心的外傷とは何なのか。例えば、今よく耳にするPTSD(外傷後ストレス障害)がある。これは自己・他者の生命の危険を感じるような出来事を経験した結果起こる心的障害と言える。では、臨床家たちの診断基準であるDSM-IV(精神疾患診断マニュアル)には、どのように定義しているか。実はそこにも、その原因となる出来事の性質やその結果起きる症状についてしか記述がなく、心的外傷自体の定義はなされてない。
▼では心的外傷をどう捉えたらいいのか。私は、最近、こう考えるようになった。つまり、体に対して危害を加えた結果起こるのが怪我、すなわち「体の傷」である。だとすると、心に危害を加えたのは、心の怪我すなわち「心の傷」ではないかと。こう言ってみたが、果たしてトラウマの定義に少しは近づけたのだろうか。
▼もう少し深く分析してみよう。では体と心はどういう関係にあるのか。心は、体があるから存在できる。そしてジェームズによると、心(思考)とはまさに自己である。自己は心の中心であり、それを実存的に下支えしているのが体である。つまり、体が心に実質性を与える。まさに不可分なものである。半世紀前、現象学者のメルロ・ポンティは、人と人とは自らの身体(的存在)を通して相互に分かり合うことができると主張した。近年、神経学者のダマシオは、自己や意識を分析する中で、自己とは体が反響した刺激の過去の神経学的表象と現在のそれとの間に生じる差異として意識となり、立ち現れると述べている。要するに、自己を持つこと、人と分かり合うことは、身体という存在を通して可能となるというのだ。
▼そこで今回の特集のテーマの「Noと言える」ということは、「自己(境界)を明確に持つ」ということであり、「自己境界(体)を他者(非自己)に向かって表明できる」ということだ。それに対して、思いやりとは、その「自己境界(体)を十分に認識すると同時に、もう一人の異なった自己(他者)の存在(体)を自己の体を通して、実感としてとらえ、その相手の視座から見ることができる」ということを指している。その意味で、この二つのテーマは深く結びついている。
▼いじめや虐待も同じだ。体も傷つくが、心はもっと傷ついている。そして自己も。「自己を守れる力」と「自己を超えて他者の視座から相手の気持ちや痛みを分かる力をもつ」ことは、いじめや虐待などの加害者や被害者の両方にとって如何に大切なことか。「自己を持つ」ということは、まさに「他者を尊重し他者の側に立ってものを考える」ための前提条件なのである。これらをいかに教育し育てていくか。これこそ、人を作り、人と人との絆を作っていく上でいかに大切か。思いを新たに強くする。

(加藤和生)
 
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