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『近代フランスの誘惑』
はじめに
 



『近代フランスの誘惑』は6月中旬刊行予定です。
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  十九世紀という時代

 本書は近代フランス、より正確には十九世紀から二十世紀初頭に至るまでのフランスの文学、メディア、芸術、社会を対象にした論考を集成したものである。フランス史では、一七八九年のフランス革命から一九一四年の第一次世界大戦勃発までの一二十年余りを、「十九世紀」という枠組みで広く捉えることが多い。その時代区分に倣うならば、本書は十九世紀フランスを論じた書物、ということになる。

 フランス革命という一大事件で幕が開いた十九世紀は、その後も度重なる政治的、社会的変動に見舞われた。ナポレオンの帝政、復古王政、七月革命とその後に成立したルイ=フィリップの七月王政、二月革命とその後に誕生し、短命に終わった第二共和制、クーデタとナポレオン三世の第二帝政、普仏戦争とパリ・コミューン、そして第三共和制とともに到来した共和制の勝利。十九世紀末に民主主義の確立を見るまで、フランスは流血をともなう革命や内乱を経験しなければならなかった。政体がめまぐるしく変わっただけではない。十九世紀は同時に産業革命を遂行し、科学の進歩を信じた時代である。文化史的には鉄道や、電気や、医学の発展を抜きにしてこの時代を語れない。

 こうした出来事や現象が、人々の社会観と世界観に大きな変革を迫るように作用したからといって、何の不思議もないだろう。文化の領域も例外ではない。新しい社会が新しい文化を生み出し、その文化がまた人々の感性と思考の輪郭を変えていくという意味で、文化は社会の表現であり、時代の表象にほかならない。近代フランスはその点で、文化と社会、文化と歴史の絡み合いを解読するのにうってつけのフィールドである。


文化空間を読み解く

 本書が依拠する基本的な立場は、文化をとおして時代と社会を読む、そして同時に、時代と社会のなかに位置づけながら文化的な創造行為の秘密に分け入るというスタンスである。そのために文化から歴史へ、歴史から文化へという双方向の視線を注意深く保とうとした。ここでいう歴史とはかならずしも政治や、経済や、事件のことではなく、より日常的なレベルで、人々の社会的表象や集団的想像力の形成に関わる事象全体を指している。

 私が心掛けたのは、個別的な作家や芸術家を論じつつ、そうした作家や芸術家が生き、作品を創造した時代の文化的風土を浮き彫りにすることだった。私は内外の文学史・思想史上の研究から多くを学ぶとともに、フランスのアナール学派の系統に連なる「心性史」や、「表象の歴史」や、「感性の歴史」から小さからぬ恩恵を受けている。そのことはテーマの選択と記述スタイルに、おのずと表れているはずである。

 第一部に収めた諸論考は、文学を対象にしている。

 十九世紀フランスは、フランス文学史上のみならず、おそらく世界文学史上でも稀に見るほど豊饒な時代だったと言っても誇張ではない。小説、詩、演劇、旅行記、そして批評とあらゆるジャンルで輝かしい作品群を後世に残してくれた。そのなかから、ここでは限られた数人の作家を論じたにすぎない。『あら皮』はもっともバルザックらしい小説、いわばバルザックをバルザックたらしめた小説と言えるが、この幻想的であると同時に鮮やかに時代の閉塞感を喚起した小説を、欲望と身体の視座から分析したのが第一章である。それに続いて第二章では、フローベールの『紋切型辞典』という特異なテクストの構造を解きほぐしながら、ブルジョワ社会の言説空間の布置を明らかにしようとした。

 第三章では、十八世紀末から盛んになった西洋人のオリエントへの旅という文化的な身ぶりに焦点を当てて、当時の作家にとってオリエント紀行がどのような意味を持っていたか分析した。エドワード・サイードのオリエンタリズム論はつとに名高いし、彼の記述においては、ラマルチーヌやネルヴァルなど十九世紀フランス作家の「東方旅行記」が大きな比重を占めている。本章ではフローベールとマクシム・デュ・カンの旅の物語をつうじて、サイードがいくらか単純化したと思われるいくつかの側面を照射した。

 七月王政下の一八三〇年代に誕生した新聞小説は、十九世紀の大衆文学の成立にあたって、決定的な貢献をした表現媒体である。新聞小説は、しばしば紋切型のテーマと逸話を再生産するだけのマイナー文学と見なされてきた。確かに文学的な質には眉を顰める点もあるが、実際に読んでみれば、時代の空気と強く共鳴する部分が少なくない。大衆小説は思想を欠落させた文学ではなく、むしろ逆に過剰なまでに思想を内包し、矯激なまでに同時代のイデオロギーと共振しているということを、このジャンルの代表的な作家の一人ウージェーヌ・シューに則して論じてみた(第四、第五章)。そして第六章は、産業革命の象徴だった鉄道というテクノロジーが、文学のなかでどのように語られたかを素描した試みである。

 十九世紀の作家はしばしば驚くほど多作だった。本書においてはバルザック、フローベール、シューが残した数多い作品のうちから、特定の作品だけを取り上げたにすぎない。したがって作家の全体像を提示するには至っていないが、偉大な作家にあっては、個別的なテクストが個別性を超えて、常に時代全体の問題に向かって開かれているものである。

 四つの章から構成されている第二部は、犯罪とその語りの形態を問いかけた一章と、写真や彫刻の世界で大きな足跡を残した芸術家をめぐる三章を含む。

 シューやデュマに明らかなように、犯罪は大衆小説が好むテーマのひとつだが、第七章では、ジャーナリズムの言説がどのように犯罪という現象を記述したかを考察した。十九世紀は識字率の上昇や印刷技術の進歩にともなって、大衆ジャーナリズムが発達する。新聞が犯罪を報道する一方で、犯罪というセンセーショナルな事件が、新聞報道の様式に影響を及ぼしたという側面も無視できない。

 写真は一八三〇年代に発明された、まさに新たな複製技術であり、報道メディアであった。その時人類は初めて、事物や人間の姿を正確に再現する手段を手に入れたのだった。高度な複製技術が提供する鮮やかな映像に慣れ親しんでいる現代のわれわれには、その衝撃の大きさは想像しがたいほどだ。誕生して間もない写真機を携えてオリエントに旅立ち、エジプトとシリアの風景や遺跡を撮影したデュ・カンと、二十世紀初頭ベル・エポック期の庶民的なパリを被写体にし、後年シュルレアリストたちから高く評価されたウージェーヌ・アジェは、それぞれ異なる資格で写真史にその名を留める人物である。第八章では、写真とオリエントがなぜかくも早い時期に遭遇したのか、そもそも西洋人がオリエントを撮影することにどのような意味があったのかを、問いかける。第九章では、アジェの写真に登場する被写体との繋がりを考慮しながら、彼が生きた時代を可能なかぎり多角的に叙述してみた。

 そして最後の第十章においては、近代彫刻を方向づけ、その代名詞となったオーギュスト・ロダンという巨大な創造者の軌跡を辿りつつ、彼の創造性を培った知的環境と文化的背景に迫った。写真や彫刻の専門家でない私は、個々の作品の美学を考察するというよりも、芸術家を生み出した風土を文化史的に再構成しようと努めたのである。

 小説、旅行記、大衆文学、ジャーナリズム、鉄道と文学、犯罪、写真、彫刻と、取り上げた主題は多様であり、時には雑多な印象をあたえるかもしれない。そこに通底しているのは、近代 フランスの錯綜する文化空間と感性の布置を解読しようとする意図にほかならない。

 

 
著者プロフィール:小倉 孝誠
1956年生まれ。東京大学大学院博士課程中退。パリ第4大学文学博士。慶應義塾大学文学部教授。専門は、近代フランスの文学と文化史。特に歴史、身体、病理、ジェンダーなどを手掛かりに、19世紀の文学、芸術、社会、思想を総合的に読み解いている。また、回想録、自伝、日記など、自己を語るエクリチュールの体系的な研究をめざしている。 著書に『19世紀フランス 夢と創造』(人文書院、1995年、渋沢・クローデル賞)、『歴史と表象』(新曜社、 1997年)、『〈女らしさ〉はどう作られたのか』(法藏館、1999年)、『推理小説の源流』(淡交社、2002年)、『いま、なぜゾラか』(共著、藤原書店、2002年)、『「感情教育」歴史・パリ・恋愛』(みすず書房、2005年)、『身体の文化史』(中央公論新社、2006年)など。また訳書にコルバン『音の風景』(藤原書店、1997年)、フローベール『紋切型辞典』(岩波文庫、2000年)ほか多数。
※著者略歴は書籍刊行時のものを表示しています。
 

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