『迷走するイギリス―― EU離脱と欧州の危機』(細谷 雄一 著)序章―イギリスはどこに向かうのか(抜粋)

『迷走するイギリス―― EU離脱と欧州の危機』(細谷 雄一 著)

序章―イギリスはどこに向かうのか(抜粋)

2016年9月30日書店にて発売!  ※発売日は地域により若干異なります。
■「序章―イギリスはどこに向かうのか」を抜粋して公開しました。ぜひ、ご覧ください。

 

序章 ―イギリスはどこに向かうのか (抜粋)

EUとの離別

 

 二〇一六年六月二四日のダウニング・ストリートの首相官邸には、大勢の記者が集まっていた。首相官邸の扉が開いて、この建物の主であるデイヴィッド・キャメロン首相がサマンサ夫人と手をつないで記者たちの前に現れた。用意された演台の前に立つキャメロン首相の顔は、どことなく緊張感が見られるが、同時に清々しい表情も見せていた。
 キャメロン首相は、次のように語り始めた。
 「この国は、巨大な民主義の実践を行いました。おそらくは、われわれの歴史の中でも最も巨大なものです。三三〇〇万人もの人びとが、イングランドで、スコットランドで、ウェールズで、そして北アイルランドやジブラルタルで、自らの意思を表明したのです。」
 この日の前日、イギリスでは、イギリスのEU(欧州連合)加盟継続を問う国民投票が行われた。そして、この国民投票の結果は、おそらく戦後イギリス政治の歴史において、もっとも重要な一つの転換点を記すことになるだろう。イギリス国民は、自らの運命を投票によって示すことになった。それは、それまでのイギリス政治の伝統とは大きく異なる決定であった。(中略)
 キャメロン首相自らは、イギリス政治史上前例のないほど大きな重みを持つこの国民投票において、イギリスがEUに残留することがイギリスの国益であると、繰り返し国民を説得してきた。また、そのような結果になることを期待し、確信もしていた。キャメロンは語る。「私は、欧州連合加盟を続けることで、イギリスはより強大になり、より安全になり、より繁栄するという信念において、これまで明確に自らの立場を貫いてきました。そして国民投票はまさに、この選択を問うものであると、語ってきました。それは、一人の政治家の将来についての選択ではなく、私自身についての問題でもありません。」しかしながら、イギリス国民はキャメロン首相の求める方向とは異なる道を歩む選択をしたのだ。
 この結果を受けて、キャメロン首相は責任を取って辞意を表明した。二〇一〇年五月一一日に首相に就任してからすで六年ほどが経過していたが、二〇一五年五月の総選挙で保守党を勝利に導いたキャメロンが任期満了となる二〇二〇年五月まで首相を務めると、誰もが考えていた。それゆえに、当然の辞意表明に多くの者が驚いた。イギリス政治における巨大な地殻変動が、キャメロンを首相の座から引きずり下ろす結果となった。
 EUへの加盟継続を主張してきた自らではなくて、新しい首相がEU離脱へ向けて指導力を発揮して、困難な交渉にあたることがイギリスの利益であると考えたのであった。キャメロンは、七月一三日に首相の職を辞して、その後任としてそれまでキャメロン内閣を、内務大臣として六年間支えてきたテリーザ・メイが首相の地位に就いた。「氷の女王」と呼ばれる強靱な意志と、強い指導力を持つメイが首相になることは、考えられる限りでおそらくは最良の結果であろう。
 とはいえ、保守党内はもちろん国民の間でも、離脱派と残留派の間で修復しがたい亀裂が生じてしまった。そして、メイ自らも、かつては離脱派に傾く欧州懐疑派(Eurosceptics)として知られていたが、実務家としての性格が強いメイは冷静に国益を計算した結果として、国民投票の直前には残留支持を表明していた。ある程度、離脱派と残留派との双方から信頼される指導者として、保守党の亀裂を修復してかなければならない。
 ケンブリッジ大学教授のピーター・クラークは、その著書『イギリス現代史』において、現代のイギリスの難しい政治的争点はほとんどが、EUとの関係に係わるものだと論じている。実際に、一九七五年にハロルド・ウィルソン労働党政権のもとで最初のEC加盟を問う国民投票を行ってから、労働党内でも、保守党内でも、あるいは政党間でも、つねにEUをめぐる問題がイギリス政治の最大の争点となってきた。この問題に苦しんだキャメロンは、国民投票の結果として国民が僅差でEU残留を選択することによって、この論争に終止符を打つことができると考えて、危険な賭けに乗ってしまった。そして、キャメロンは見事に悲惨な敗北を喫したのだ。
 この国民投票は、キャメロン首相に辞任をもたらしたのみならず、イギリス政治にとっても、さらにはEUの将来や、国際秩序全般にとっても、きわめて巨大な影響を及ぼすことになるであろう。それは、イギリスの国家としての危機であり、またEUの危機であり、さらにはリベラル国際秩序の危機でもある。それらの意味を考えるのが、本書の重要な目的である。

 


ヨーロッパの複合的危機

 

 それでは、そもそもなぜイギリス国民はEUからの離脱という厳しい道のりを自ら選んだのであろうか。そして、それはどのような意味を持っているのであろうか。
 この問題を考える際には、単にイギリスのEUからの離脱という一国の問題として考えるのではなく、ヨーロッパ全体の巨大な政治変動の一員として考える必要がある。また、それを複合的な政治危機としてとらえることが重要だ。それはどういうことであろうか。 


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『迷走するイギリス―― EU離脱と欧州の危機』(細谷 雄一 著)

『迷走するイギリス―― EU離脱と欧州の危機』(細谷 雄一 著)序章―イギリスはどこに向かうのか(抜粋)

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書籍詳細

分野 政治
初版年月日 2016/10/05
本体価格 1,800円(+税)
判型等 四六判/並製/224頁
ISBN 978-4-7664-2373-0
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著者 細谷 雄一(ほそや ゆういち)

慶應義塾大学法学部教授。1971年、千葉県生まれ。英国バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。博士(法学)。
主な著書に、『戦後国際秩序とイギリス外交―戦後ヨーロッパの形成1945年-1951年』(創文社、2001、サントリー学芸賞)、『倫理的な戦争―トニー・ブレアの栄光と挫折』(慶應義塾大学出版会、2009、読売・吉野作造賞)、『国際秩序―18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書、2012)、『歴史認識とは何か―日露戦争からアジア太平洋戦争まで』(新潮選書、2015)ほか。

  

 

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