『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

ブックフェア特設サイト
『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』

(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

 

●訳者の秋草 俊一郎氏による講演会のご案内
東京外国語大学 ロシア若手トーク:秋草俊一郎さん講演会「作家の写真を読む― 『ロリータ』の著者ナボコフは、いかに世界的作家になったか」

●『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)の「イントロダクション(序文)」、書評、書店フェア情報などを掲載しました。

書店フェアで配布しているブックリストを掲載しました。(PDF)

 

書店フェアのご案内

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

【世界はどこまで「翻訳」できるのか?】 訳者 今井亮一

昨年末、新幹線の台車に亀裂が見つかった問題で、重大インシデント・・・・・・という聞き慣れない翻訳語が使われていたのは、記憶に新しい。この言葉づかいに、あくまで事故ではなかったのだという安全神話を感じてしまうのは、7年前のことがあるからだ。福島第一原発のタービン建屋が吹っ飛んださいに使われた、爆発的事象・・というやはり耳なじみのない語。原子力がらみの異常を、レベル0「安全上重要でない事象」からレベル7「深刻な事故」に分類するINESとその日本語版によれば、3以下は「異常事象incident」であり、4以上が「事故accident」となる。そして日本政府が当初、福島原発の状態としたレベル3は「重大な異常事象serious incident」、つまりは「重大インシデント」と呼ばれている。

incidentをインシデントと無翻訳のまま残しても、(異常)事象と訳しても、あるいは事故とやや意訳しても、語学的に誤りとは言えない。ならばこれは、翻訳研究であつかえない問題なのだろうか? あるいはこうした時事社会的・科学技術的な話題を前にすれば、伝統的な人文学は無力なのだろうか? 2006年に刊行された『翻訳地帯』に3.11の話はもちろん出てこないが、このような問いを補助線としてみると、同書の問題意識が現在の日本でも身近に感じられるかもしれない。著者エミリー・アプターはイントロダクションで書いている――「本書の狙いは、伝統的に、原作に対する語学的・逐語的忠実さの観点から論じられてきた翻訳研究を再考することにある」。そしてこの本の背景には、9.11や科学技術への目配せがある。プログラミングやゲノム解読の知見によって、共通コードが想定される以上「すべては翻訳可能である」と見える場合もあれば、アラビア語やイスラムがテロリズムや宗教≒非世俗を含意して即座に敵対してしまうような、「翻訳可能なものはなにもない」と見える事態もある。後者の延長線上に、今なお続くテロ、トランプ政権さえ誕生させた移民排斥の風潮、さらにはヘイトスピーチがあることを思えば、ポスト9.11の人文学を考察した先駆的な著作である『翻訳地帯』は、特に補助線なくさらに身近なものとなるはずだ。

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

人文学という大きなくくりのなかでも、比較文学を専門とするアプターが思索の手がかりとするのは、アウエルバッハやシュピッツァーの文献学であったり、ベンヤミンやサイードなどの批評であったり、世界文学や現代アートの作品であったりする。こうした話題の広さに呼応するように、『翻訳地帯』の「翻訳」が指す範囲も広く、クレオールや言語実験や非標準的言語なども「翻訳」の文脈で取り上げられる。むしろここでは、なにが翻訳でないかを考えたほうがわかりやすそうだ。端的に言えばそれは、ひたすら1つの言語に留まるという単一言語主義モノリンガリズムだ。ただし同時にアプターは、「すべては翻訳可能である」という、安易な他者理解に通じるお花畑にくみするわけでもない。『翻訳地帯』が探究するのは、まさに「翻訳―中in-translation」の地帯だ。

アプターは後の著作で、『翻訳地帯』の営みに関して「活性化activate」という語を使っている。この本を貫いているのは、なんにでも一般的に当てはまる「理論」というより、様々なことがらを通じて伝統的な人文知を活性化し、新たな批評パラダイムに向けて変容させ「翻訳」していくという、一種の態度や姿勢だと思われる。このブックフェアが、そうした営みをさらに広げていくヒントとなれば、とてもうれしい。

 

 

●フェアのご紹介

三省堂書店神保町本店2階 文芸書フロア

開催店舗やフェアの様子をお伝えします。

ブックリストはこちら(PDF)

  

 

イントロダクション (一部抜粋)

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

9.11の悲劇の余波をうけて、政治的な観点からも、腕利きの訳者がすぐにでも要ることがだれの目にも明らかになり、国家の安全を保障する機関は、傍受した情報や文書を解読する語学に長けた専門家を確保しようと躍起になった。翻訳とグローバル外交の関係が、かくも密になったことはなかったように見える。アメリカの単一言語主義モノリンガリズムは情報共有、文化・宗教の枠をこえた相互理解、多国籍協同の必要性が再認識されたこともあって批判を集め、翻訳は大きな政治的、文化的意義をもつイシューとして最前線におどりでたのだった。もはや、翻訳を国際関係、ビジネス、教育、文化のたんなる道具と見なすことはできない。翻訳は戦争と平和の重要事として、特筆されるようになったのだ。

これが、『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』が編まれた政治的状況である。本書の狙いは、伝統的に、原作に対する語学的・逐語的忠実さの観点から論じられてきた翻訳研究を再考することにある。そのためにとった広い理論上の枠組みによって浮かびあがるのが、戦争で誤訳がはたした役割や、 正典カノン形成や文学研究をめぐる言語戦争や文学戦争があたえた影響、非標準語を使った文学的実験の重要性、技術リテラシーの時代における「研究の翻訳知トランスラティオ・ストゥディ」としての人文主義ヒューマニズムの伝統といったトピックである。

研究を進めていくうちに、一種、矛盾したプロセスが進行していると意識せざるをえなかった。というのも、英語、マンダリン、スワヒリ語、スペイン語、アラビア語、フランス語といったグローバルな有力言語が、言語的多様性を削減しつつも、多言語をもちいた芸術の新しい形をも同時に生みだしているからである。たとえば、テクノクラシーのリンガ・フランカとしてのグローバル・イングリッシュの覇権を嘆いてももはや陳腐でしかない。他方、ほかのグローバル言語が、世界文化の生産のパワーバランスをどう変化させているのかについてはあまり注目されていない。たとえば、中国語はいまやインターネットリテラシーにおけるメジャー言語になり、かつてないほど英語に肉薄している。本書の基調をなす前提とは、メディア、リテラシー、文学市場、インターネットを介した情報交換、文学性を指すコードといった種々の領域で、言語戦争が(大小を問わず)、翻訳のポリティクスをかたちづくるというものだ。それによって翻訳研究の裾野も拡大しつつあるが、その一方には、現実世界の実際の問題--戦時下の諜報活動、国家公認文化内部におけるマイノリティ言語の闘争、「ほかの英語アザー・イングリッシィズ 」をめぐる論争など--があり、もう一方には、より抽象的な思考――ピジンやクレオールの文学作品への流用、著名な前衛文学における多言語実験、メディア間翻訳など――がある。

翻訳研究がつねに直面せざるをえない問題とは、翻訳研究が、文化的記憶を永らえさせるのか、それを抹消していくのか、どちらの目的により適うのかということだ。ヴァルター・ベンヤミンによるよく知られた議論によれば、すぐれた翻訳とは、起点言語の死と目標言語への将来的な転送のあいだに引かれた線を飛びこえて、原作の「死後の生」を可能にするものだ。この死/生の難問アポリア は、翻訳研究における言説をまっぷたつにしてしまう。翻訳は、貴重なテクストを普及・保存するために欠かせない存在とされながら、言語絶滅の執行人とも見なされているのだ。というのも、経済力が強い言語と、人口規模の大きな言語が支配する世界においては特に、翻訳のせいでマイナー言語は衰退に追いやられてしまうからだ--たとえ、それが「小さな」文学の文化財へのアクセスを促進し、マイナーな伝統文化を代表する少数の作家たちに広く人目に触れる機会を保障するとしてもだ。ここにあるのは、危機に瀕した言語と文学の生態系をめぐるマルサス主義的考察である。デイヴィッド・クリスタルの『消滅する言語――人類の知的遺産をいかに守るか』(二〇〇〇)や、アンドルー・ドルビーの『危機に瀕した言語――言語的多様性の喪失と私たちの未来への脅威』(二〇〇二)のような著作に書かれているのは、生息地の環境が悪化すれば動植物の生存率が不安定になるようなことが、危機に瀕した言語にもおこるということだ。たとえばカリフォルニアにかぎっても、かつて話されていた九十八のネイティヴアメリカンの言語のうち、どれひとつとして生きのびられそうにない。ドルビーによれば、状況は次のようなものだ。

九十八言語のうち、四十五以上の言語が、流暢に話せる話者がまったく残っておらず、十七言語がひとりから五人しかいない。残りの三十六言語は、高齢者の話者しかいない。いま、カリフォルニアのインディアンの言語のうち、ひとつとして、日常生活のコミュニケーションに使われているものはない(1)。

ドルビーとクリスタルの研究がしめすのは、どれほど翻訳が民族の記憶を保存し、文化的記憶喪失を緩和する役に立つとしても、生きた言語の生命力を断ち切ってしまう無数の天敵のひとつでもあるということだ。

ドルビーとクリスタルの知識と関心は専門である言語人類学にまずもって向けられていて、二人が代表するのは、翻訳研究の中でもエコロジカル/環境主義的なアプローチである。喫緊の課題として、二人がおこなっている「フィールドワーク」の対象になるのは、危機に瀕した言語種と言語ポリティクスだ(方言の公認化を求める動き、歴史的に前衛文学が標準語の用法を転覆してきたこと、デジタルリテラシー時代における文学の輪郭の溶解といった話題など)。翻訳研究はつねに、「合致アダエクアティオ」という問題にかかわってきた。つまり、原作の文学作品に対して、意味・文体レベルでどこまで不実かということである。すなわち注視されているのは文学よりも言語であって、それこそが言語的侵食や絶滅の結果なんの意味が失われ、なんの意味をえたのかを決めるのだ。

翻訳研究を、言語エコロジーの方向に推進することには、かなりのためらいを感じざるをえない。たとえ、この新しい方向性が、比較文学と地域研究のあいだのインターディシプリンな研究に豊かな可能性をもたらすとしてもだ。私の不安は、翻訳研究が言語エコロジーに過度に依拠することで、言語遺産を絶対視するようになり、学芸員然とした保全活動に終始してしまうのではないかということだ。言語的地方色の無数の装飾的要素のように、口蓋音、借用語や慣用表現がエキゾチックなものにされてしまう。言語的な文化本質主義が手に負えないほど強まるのではないか。方言が自然に変化してできたヴァリエーションが、かっちりした文法の標準言語モデルにあてはめられてしまう。私が個人的に関心をよせているのは、文芸や、理論にかんする問題にしぼった言語ポリティクスの批評モデルである。それは他方では、言語学的唯名論(あるいは、ある言語名が、言語テリトリーにおいて実際に使われている文法に結びつけられるときに、現に示しているものと言ってもよい)の研究に新たな息を吹きこむ。

言語戦争も、翻訳地帯トランスレーション・ゾーンのコンセプトをささえる中心的なテーマである。「地帯ゾーン」という言葉を、理論の柱にすえることで意図していたのは、広範な知的トポグラフィをイメージすることだった。それは、ひとつの国の所有におさまるものでもなければ、ポストナショナリズムに通じるとりとめのない状態でもない、「トランレーション transLation」と「トランスーション transNation」のレ(L)とネ(N)を結ぶ批評的営みのゾーンなのだ。トランスレイショナル・トランスナショナリズム(この言葉を私は、小さな国家や、マイノリティ言語コミュニティにおける翻訳の役割を強調するためにつかう)への乗りつぎ港の役割を「トランスtrans」という共通の接頭語ははたすが、同時にそれは、文化における行間休止カエスーラ への荷揚げ地点――trans-ation――にもなり、そこでは 伝達トランスミッション失敗のしるしが刻まれている。

ギヨーム・アポリネールによる有名な詩「地帯ゾーン」(一九一二)が描きだしたのは、ボヘミアンや移民、マイノリティが集住するパリ周縁部と重ねあわされる、心理上・地理上の領域である。しかし、このゾーンというアイデアが、散漫な地形区分と化して久しい。なぜなら、都市と田舎、中心と周縁、産業革命以前と以後、資本主義以前と以後をへだてる区別が溶解してしまったためだ。建築家レム・コールハースは「ゾーン」という言葉を、あとで変更がきくスペースのキャパシティの限界を示すため、設計上とりあえずいれておくものを指す用語として用いた(2)。翻訳地帯(トランスレーシヨン・ゾーン)というアイデアは、ソーシャルエンジニアリングの用語を用いて考えると、管理下におかれた言語保護地域、多目的の立入制限区域、アパルトヘイトの隔離地域、防疫線コルドン・サニテールなどにも重なってくる。本書で、複数のセクションにわたって、言語をしわけ、それ自体の中に閉じこめ、翻訳不可能なものにしておくために使われてきた意味的ゾーニング理論(とくにウィラード・クワインの理論がそうだが)を扱ったが、たいていの場合、私の考えでは、このゾーンは「翻訳-中in-translation」である場所を指ししめすものだ。つまり、ひとつの独立した言語や単一のコミュニケーションメディアに属さないものだ。こういった用語との関連で広く意味をとった場合、翻訳地帯がカバーする範囲は、ディアスポラ的言語コミュニティ、印刷・メディア公共空間、統治機関・言語政策立案機関、交戦圏、比較文学の過去と未来に深くかかわる批評理論におよぶ。翻訳地帯が明らかにするのは、政治、詩学、論理、サイバネティクス、言語学、遺伝学、メディア、環境を認識する上での空隙である。そこでの移動は、超常的な憑依現象と情報伝達テクノロジーの両方の特徴を帯びる。

愛の行為として、不和の行為としての翻訳は、世界や歴史における主体の位置づけをあらためるための手段になる。それは自己認識を、自分自身にとって異質なものにする手段である。それは、国家空間やお決まりの日常生活といった、所与のドメスティックな環境のここちよいゾーンから、市民を拉致して国籍を剝奪する方法である。それは、他言語に熟達すれば、ナショナルかつインディヴィジュアルなナルシシズムに気もちよく一喝できるという自明の理である。翻訳の失敗が画定するのは、主観と主観のあいだの境界だが、他方でそれは、「意識の盲点」に焦点をあてもする――そこで人の思考は、等価性という不毛地帯に足を踏み入れたり、特定の言語や国家に属さない観念を核にして結晶化したりする。翻訳は、主体の再編と政治変革をもたらす手段としても重要である。


(1) Andrew Dalby, Language in Danger: The Loss of Linguistic Diversity and the Threat to Our Future (New York: Columbia University Press, 2003), p. 239.
(2) Rem Koolhaus, Content (London: Taschen, 2004), p. 90.

  

 

毎日新聞2018年5月11日朝刊「今週の本棚」抜粋
評者:鴻巣友季子氏(翻訳家、エッセイスト)

◆現代の翻訳学に必須の一冊
 Adjudantへの誤訳ひとつが普仏戦争の引き金となった--待望の邦訳書がついに刊行された本書には、そんな記述がある。この語は独語では「副官」を意味するが、仏語では「曹長」を指す。しかもこの文書にはビスマルクが戦意を煽(あお)るための“故意の誤訳”(捏造(ねつぞう))があった。
 翻訳とは、言語学や文学、語学教育、せいぜい各国のおつきあいの際に必要なツールとみなされてきたろう、と本書(の原書)は言う。しかし翻訳とはもろに政治の場であり、戦場であり、知力の武器そのものだ。通訳の仕方で裁判の行方が左右される韓国系作家の『通訳/インタープリター』や、ユダヤ人カトリック神父をモデルにした『通訳ダニエル・シュタイン』といった小説を読んでもわかるとおり。言語的マイノリティに属する人間なら古くから勘づいていよう。
 英語帝国アメリカはこうした事実を、9・11テロで今さらながら痛感し、翻訳に対する意識が急激に高まった。これの副次的効果は、翻訳文学の専門出版社が雨後の筍のごとく増殖、成長したことだ。
 さて、『翻訳地帯』は巻頭に、「翻訳可能なものはなにもない」から「すべては翻訳可能である」まで二十の命題を掲げている。書中には、「翻訳は災害」「戦争とは誤訳や食い違いの極端な継続」「翻訳とはクローンのクローン」といった刺戟(しげき)的な定義も満載だ。しかし本書の主要な狙いの一つは、翻訳を新たな比較文学の土台として捉え、その根幹的な役割を論じることである。 (後略)

 

書評本文はこちら(毎日新聞2018年5月11日朝刊)

鴻巣友季子さんのFacebookに掲載された書評はこちら


  

 

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

翻訳研究と文学を融合する
9.11「同時多発テロ」以降、ますます混迷する世界状況にたいし、人文学はどのようなことばで相対することが可能だろうか?
著者は、「戦争とは他の手段をもってする誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない」という定義から出発し、単一言語(英語)主義がうむ世界の軋轢に警鐘を鳴らしつつ、「翻訳」の観点から新たな人文学のアプローチを模索する。
本書で俎上に上げられるのは、第二次世界大戦中のシュピッツァー、アウエルバッハの思想にある人文主義的コスモポリタニズム、スピヴァク、サイードの惑星的批評、ウリポなどの実験的な言語芸術の政治性、クレオールやバルカン半島の多言語状況の文学、さらには現代アートと擬似翻訳を例にした翻訳とテクノロジーの問題……など多岐にわたる。
「翻訳可能なものはなにもない」「すべては翻訳可能である」――二つの矛盾するテーゼを掲げ、言語と言語の狭間にあるものを拾いあげること、「翻訳中」のままに思考しつづけることを提言する。

■目次などの書籍詳細・ご購入はこちら


  

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』
(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

判型 A5判/上製/420頁
初版年月日 2018/04/20
ISBN 978-4-7664-2518-5 (4-7664-2518-9)
本体 5,500円

  

著者 エミリー・アプター(Emily Apter)

1954年生まれ。1983年プリンストン大学比較文学科で博士号を取得。ニューヨーク大学フランス文学・比較文学教授。
おもな著作に、Feminizing the Fetish: Psychoanalysis and Narrative Obsession in Turn-of-the-Century France (1991), Continental Drift: From National Characters to Virtual Subjects (1999), Against World Literature: On The Politics of Untranslatability (2013) など。

  

訳者 秋草俊一郎(あきくさ・しゅんいちろう)

1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。
現在、日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究など。著書に、『ナボコフ 訳すのは「私」――自己翻訳がひらくテクスト』、『アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像』(近刊)。訳書に、バーキン『出身国』、ナボコフ『ナボコフの塊――エッセイ集1921-1975』(編訳)、ダムロッシュ『世界文学とは何か?』(共訳)など。

  

訳者 今井亮一(いまい・りょういち)

1987年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。2014-15年度サントリー文化財団鳥井フェロー。専門は比較文学など。
論文に、「中上健次の「日本語」について――翻訳研究の視点から読む中期作品」(『れにくさ』第8号)など。共著書に、『スヌーピーのひみつ A to Z』。共訳書に、ハント『英文創作教室 Writing Your Own Stories』、モレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』など。

  

訳者 坪野圭介(つぼの・けいすけ)

1984年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。
現在、同大学院特任研究員。専門はアメリカを中心とした都市文学・文化。論文に、「形式は機能に従う――詩人カール・サンドバーグと建築家ルイス・サリヴァンの摩天楼」(『れにくさ』第8号)など。 訳書に、キッド『判断のデザイン』、シールズ他『サリンジャー』(共訳)など。

  

訳者 山辺弦(やまべ・げん)

1980年生まれ。 東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。
現在、東京経済大学経済学部専任講師。専門は現代スペイン語圏のラテンアメリカ文学。 著書に、『抵抗と亡命のスペイン語作家たち』(共著)。訳書に、アレナス『襲撃』、ピニェーラ『圧力とダイヤモンド』、ダムロッシュ『世界文学とは何か?』(共訳)など。

  

 

関連書籍