『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

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『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』

(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

 

●訳者の秋草 俊一郎氏による講演会のご案内
東京外国語大学 ロシア若手トーク:秋草俊一郎さん講演会「作家の写真を読む― 『ロリータ』の著者ナボコフは、いかに世界的作家になったか」

●『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)の「イントロダクション(序文)」、書評、書店フェア情報などを掲載しました。

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書店フェアのご案内

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

【世界はどこまで「翻訳」できるのか?】 訳者 今井亮一

昨年末、新幹線の台車に亀裂が見つかった問題で、重大インシデント・・・・・・という聞き慣れない翻訳語が使われていたのは、記憶に新しい。この言葉づかいに、あくまで事故ではなかったのだという安全神話を感じてしまうのは、7年前のことがあるからだ。福島第一原発のタービン建屋が吹っ飛んださいに使われた、爆発的事象・・というやはり耳なじみのない語。原子力がらみの異常を、レベル0「安全上重要でない事象」からレベル7「深刻な事故」に分類するINESとその日本語版によれば、3以下は「異常事象incident」であり、4以上が「事故accident」となる。そして日本政府が当初、福島原発の状態としたレベル3は「重大な異常事象serious incident」、つまりは「重大インシデント」と呼ばれている。

incidentをインシデントと無翻訳のまま残しても、(異常)事象と訳しても、あるいは事故とやや意訳しても、語学的に誤りとは言えない。ならばこれは、翻訳研究であつかえない問題なのだろうか? あるいはこうした時事社会的・科学技術的な話題を前にすれば、伝統的な人文学は無力なのだろうか? 2006年に刊行された『翻訳地帯』に3.11の話はもちろん出てこないが、このような問いを補助線としてみると、同書の問題意識が現在の日本でも身近に感じられるかもしれない。著者エミリー・アプターはイントロダクションで書いている――「本書の狙いは、伝統的に、原作に対する語学的・逐語的忠実さの観点から論じられてきた翻訳研究を再考することにある」。そしてこの本の背景には、9.11や科学技術への目配せがある。プログラミングやゲノム解読の知見によって、共通コードが想定される以上「すべては翻訳可能である」と見える場合もあれば、アラビア語やイスラムがテロリズムや宗教≒非世俗を含意して即座に敵対してしまうような、「翻訳可能なものはなにもない」と見える事態もある。後者の延長線上に、今なお続くテロ、トランプ政権さえ誕生させた移民排斥の風潮、さらにはヘイトスピーチがあることを思えば、ポスト9.11の人文学を考察した先駆的な著作である『翻訳地帯』は、特に補助線なくさらに身近なものとなるはずだ。

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

人文学という大きなくくりのなかでも、比較文学を専門とするアプターが思索の手がかりとするのは、アウエルバッハやシュピッツァーの文献学であったり、ベンヤミンやサイードなどの批評であったり、世界文学や現代アートの作品であったりする。こうした話題の広さに呼応するように、『翻訳地帯』の「翻訳」が指す範囲も広く、クレオールや言語実験や非標準的言語なども「翻訳」の文脈で取り上げられる。むしろここでは、なにが翻訳でないかを考えたほうがわかりやすそうだ。端的に言えばそれは、ひたすら1つの言語に留まるという単一言語主義モノリンガリズムだ。ただし同時にアプターは、「すべては翻訳可能である」という、安易な他者理解に通じるお花畑にくみするわけでもない。『翻訳地帯』が探究するのは、まさに「翻訳―中in-translation」の地帯だ。

アプターは後の著作で、『翻訳地帯』の営みに関して「活性化activate」という語を使っている。この本を貫いているのは、なんにでも一般的に当てはまる「理論」というより、様々なことがらを通じて伝統的な人文知を活性化し、新たな批評パラダイムに向けて変容させ「翻訳」していくという、一種の態度や姿勢だと思われる。このブックフェアが、そうした営みをさらに広げていくヒントとなれば、とてもうれしい。

 

 

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イントロダクション (一部抜粋)

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

9.11の悲劇の余波をうけて、政治的な観点からも、腕利きの訳者がすぐにでも要ることがだれの目にも明らかになり、国家の安全を保障する機関は、傍受した情報や文書を解読する語学に長けた専門家を確保しようと躍起になった。翻訳とグローバル外交の関係が、かくも密になったことはなかったように見える。アメリカの単一言語主義モノリンガリズムは情報共有、文化・宗教の枠をこえた相互理解、多国籍協同の必要性が再認識されたこともあって批判を集め、翻訳は大きな政治的、文化的意義をもつイシューとして最前線におどりでたのだった。もはや、翻訳を国際関係、ビジネス、教育、文化のたんなる道具と見なすことはできない。翻訳は戦争と平和の重要事として、特筆されるようになったのだ。

これが、『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』が編まれた政治的状況である。本書の狙いは、伝統的に、原作に対する語学的・逐語的忠実さの観点から論じられてきた翻訳研究を再考することにある。そのためにとった広い理論上の枠組みによって浮かびあがるのが、戦争で誤訳がはたした役割や、 正典カノン形成や文学研究をめぐる言語戦争や文学戦争があたえた影響、非標準語を使った文学的実験の重要性、技術リテラシーの時代における「研究の翻訳知トランスラティオ・ストゥディ」としての人文主義ヒューマニズムの伝統といったトピックである。

研究を進めていくうちに、一種、矛盾したプロセスが進行していると意識せざるをえなかった。というのも、英語、マンダリン、スワヒリ語、スペイン語、アラビア語、フランス語といったグローバルな有力言語が、言語的多様性を削減しつつも、多言語をもちいた芸術の新しい形をも同時に生みだしているからである。たとえば、テクノクラシーのリンガ・フランカとしてのグローバル・イングリッシュの覇権を嘆いてももはや陳腐でしかない。他方、ほかのグローバル言語が、世界文化の生産のパワーバランスをどう変化させているのかについてはあまり注目されていない。たとえば、中国語はいまやインターネットリテラシーにおけるメジャー言語になり、かつてないほど英語に肉薄している。本書の基調をなす前提とは、メディア、リテラシー、文学市場、インターネットを介した情報交換、文学性を指すコードといった種々の領域で、言語戦争が(大小を問わず)、翻訳のポリティクスをかたちづくるというものだ。それによって翻訳研究の裾野も拡大しつつあるが、その一方には、現実世界の実際の問題--戦時下の諜報活動、国家公認文化内部におけるマイノリティ言語の闘争、「ほかの英語アザー・イングリッシィズ 」をめぐる論争など--があり、もう一方には、より抽象的な思考――ピジンやクレオールの文学作品への流用、著名な前衛文学における多言語実験、メディア間翻訳など――がある。

翻訳研究がつねに直面せざるをえない問題とは、翻訳研究が、文化的記憶を永らえさせるのか、それを抹消していくのか、どちらの目的により適うのかということだ。ヴァルター・ベンヤミンによるよく知られた議論によれば、すぐれた翻訳とは、起点言語の死と目標言語への将来的な転送のあいだに引かれた線を飛びこえて、原作の「死後の生」を可能にするものだ。この死/生の難問アポリア は、翻訳研究における言説をまっぷたつにしてしまう。翻訳は、貴重なテクストを普及・保存するために欠かせない存在とされながら、言語絶滅の執行人とも見なされているのだ。というのも、経済力が強い言語と、人口規模の大きな言語が支配する世界においては特に、翻訳のせいでマイナー言語は衰退に追いやられてしまうからだ--たとえ、それが「小さな」文学の文化財へのアクセスを促進し、マイナーな伝統文化を代表する少数の作家たちに広く人目に触れる機会を保障するとしてもだ。ここにあるのは、危機に瀕した言語と文学の生態系をめぐるマルサス主義的考察である。デイヴィッド・クリスタルの『消滅する言語――人類の知的遺産をいかに守るか』(二〇〇〇)や、アンドルー・ドルビーの『危機に瀕した言語――言語的多様性の喪失と私たちの未来への脅威』(二〇〇二)のような著作に書かれているのは、生息地の環境が悪化すれば動植物の生存率が不安定になるようなことが、危機に瀕した言語にもおこるということだ。たとえばカリフォルニアにかぎっても、かつて話されていた九十八のネイティヴアメリカンの言語のうち、どれひとつとして生きのびられそうにない。ドルビーによれば、状況は次のようなものだ。

九十八言語のうち、四十五以上の言語が、流暢に話せる話者がまったく残っておらず、十七言語がひとりから五人しかいない。残りの三十六言語は、高齢者の話者しかいない。いま、カリフォルニアのインディアンの言語のうち、ひとつとして、日常生活のコミュニケーションに使われているものはない(1)。

ドルビーとクリスタルの研究がしめすのは、どれほど翻訳が民族の記憶を保存し、文化的記憶喪失を緩和する役に立つとしても、生きた言語の生命力を断ち切ってしまう無数の天敵のひとつでもあるということだ。

ドルビーとクリスタルの知識と関心は専門である言語人類学にまずもって向けられていて、二人が代表するのは、翻訳研究の中でもエコロジカル/環境主義的なアプローチである。喫緊の課題として、二人がおこなっている「フィールドワーク」の対象になるのは、危機に瀕した言語種と言語ポリティクスだ(方言の公認化を求める動き、歴史的に前衛文学が標準語の用法を転覆してきたこと、デジタルリテラシー時代における文学の輪郭の溶解といった話題など)。翻訳研究はつねに、「合致アダエクアティオ」という問題にかかわってきた。つまり、原作の文学作品に対して、意味・文体レベルでどこまで不実かということである。すなわち注視されているのは文学よりも言語であって、それこそが言語的侵食や絶滅の結果なんの意味が失われ、なんの意味をえたのかを決めるのだ。

翻訳研究を、言語エコロジーの方向に推進することには、かなりのためらいを感じざるをえない。たとえ、この新しい方向性が、比較文学と地域研究のあいだのインターディシプリンな研究に豊かな可能性をもたらすとしてもだ。私の不安は、翻訳研究が言語エコロジーに過度に依拠することで、言語遺産を絶対視するようになり、学芸員然とした保全活動に終始してしまうのではないかということだ。言語的地方色の無数の装飾的要素のように、口蓋音、借用語や慣用表現がエキゾチックなものにされてしまう。言語的な文化本質主義が手に負えないほど強まるのではないか。方言が自然に変化してできたヴァリエーションが、かっちりした文法の標準言語モデルにあてはめられてしまう。私が個人的に関心をよせているのは、文芸や、理論にかんする問題にしぼった言語ポリティクスの批評モデルである。それは他方では、言語学的唯名論(あるいは、ある言語名が、言語テリトリーにおいて実際に使われている文法に結びつけられるときに、現に示しているものと言ってもよい)の研究に新たな息を吹きこむ。

言語戦争も、翻訳地帯トランスレーション・ゾーンのコンセプトをささえる中心的なテーマである。「地帯ゾーン」という言葉を、理論の柱にすえることで意図していたのは、広範な知的トポグラフィをイメージすることだった。それは、ひとつの国の所有におさまるものでもなければ、ポストナショナリズムに通じるとりとめのない状態でもない、「トランレーション transLation」と「トランスーション transNation」のレ(L)とネ(N)を結ぶ批評的営みのゾーンなのだ。トランスレイショナル・トランスナショナリズム(この言葉を私は、小さな国家や、マイノリティ言語コミュニティにおける翻訳の役割を強調するためにつかう)への乗りつぎ港の役割を「トランスtrans」という共通の接頭語ははたすが、同時にそれは、文化における行間休止カエスーラ への荷揚げ地点――trans-ation――にもなり、そこでは 伝達トランスミッション失敗のしるしが刻まれている。

ギヨーム・アポリネールによる有名な詩「地帯ゾーン」(一九一二)が描きだしたのは、ボヘミアンや移民、マイノリティが集住するパリ周縁部と重ねあわされる、心理上・地理上の領域である。しかし、このゾーンというアイデアが、散漫な地形区分と化して久しい。なぜなら、都市と田舎、中心と周縁、産業革命以前と以後、資本主義以前と以後をへだてる区別が溶解してしまったためだ。建築家レム・コールハースは「ゾーン」という言葉を、あとで変更がきくスペースのキャパシティの限界を示すため、設計上とりあえずいれておくものを指す用語として用いた(2)。翻訳地帯(トランスレーシヨン・ゾーン)というアイデアは、ソーシャルエンジニアリングの用語を用いて考えると、管理下におかれた言語保護地域、多目的の立入制限区域、アパルトヘイトの隔離地域、防疫線コルドン・サニテールなどにも重なってくる。本書で、複数のセクションにわたって、言語をしわけ、それ自体の中に閉じこめ、翻訳不可能なものにしておくために使われてきた意味的ゾーニング理論(とくにウィラード・クワインの理論がそうだが)を扱ったが、たいていの場合、私の考えでは、このゾーンは「翻訳-中in-translation」である場所を指ししめすものだ。つまり、ひとつの独立した言語や単一のコミュニケーションメディアに属さないものだ。こういった用語との関連で広く意味をとった場合、翻訳地帯がカバーする範囲は、ディアスポラ的言語コミュニティ、印刷・メディア公共空間、統治機関・言語政策立案機関、交戦圏、比較文学の過去と未来に深くかかわる批評理論におよぶ。翻訳地帯が明らかにするのは、政治、詩学、論理、サイバネティクス、言語学、遺伝学、メディア、環境を認識する上での空隙である。そこでの移動は、超常的な憑依現象と情報伝達テクノロジーの両方の特徴を帯びる。

愛の行為として、不和の行為としての翻訳は、世界や歴史における主体の位置づけをあらためるための手段になる。それは自己認識を、自分自身にとって異質なものにする手段である。それは、国家空間やお決まりの日常生活といった、所与のドメスティックな環境のここちよいゾーンから、市民を拉致して国籍を剝奪する方法である。それは、他言語に熟達すれば、ナショナルかつインディヴィジュアルなナルシシズムに気もちよく一喝できるという自明の理である。翻訳の失敗が画定するのは、主観と主観のあいだの境界だが、他方でそれは、「意識の盲点」に焦点をあてもする――そこで人の思考は、等価性という不毛地帯に足を踏み入れたり、特定の言語や国家に属さない観念を核にして結晶化したりする。翻訳は、主体の再編と政治変革をもたらす手段としても重要である。


(1) Andrew Dalby, Language in Danger: The Loss of Linguistic Diversity and the Threat to Our Future (New York: Columbia University Press, 2003), p. 239.
(2) Rem Koolhaus, Content (London: Taschen, 2004), p. 90.

  

 

第一章 9・11後の翻訳――戦争技法を誤訳する(一部抜粋)

 9・11の衝撃が冷めやらぬなか、アラビア語通訳が払底していることがわかると、米国で翻訳が議論の的になった。突如白日のもとにさらされたのは、単独行動主義ユニラテラリズムと自国文化中心の対外政策の元凶である単一言語使用モノリンガリズムに、世界が激怒しているという事実だった。単一言語使用の慢心が、国務省や諜報機関の翻訳能力への国民の信頼とともに霧消しても、多国籍軍の英語中心主義が生んだ精神的、政治的危険性が満足に検討されることはついぞなかった。誤訳の「テロ」はいまだ病理を特定できていないばかりか、機械翻訳に切り替えていく処置をとっても、恐怖を鎮める役にはほとんど立たない。イラク戦争開戦前の二〇〇二年十月二日、MSNBCはこう報じていた。

米軍がイラクを近日中に急襲した場合でも、捕虜の尋問から化学兵器の隠匿場所の特定まで、全局面で有用な電子翻訳機の助けをあてにできます。「手を上げろ」のような命令をアラビア語会話やクルド語会話に変換してくれるだけではなく、一刻を争う諜報活動にあっても、世界一難しい言語からの迅速な翻訳が可能だと軍当局者は期待をよせています(1)。

国防高等研究計画局DARPAが開発した「野外/戦場フイールド」使用目的の携行機械翻訳装置への依存は、ボスニア戦争では顕著に見られた傾向だった。広く使われたプログラムには、お気楽にも「外交官」なる名称がつけられていたものもあった。しかし、使用の結果あてにできないとわかり、ひどい場合には致命的な欠陥さえあった。誤訳の代償は死だ。戦争という劇場にあっては、マシンエラーはたやすく「同士討ちフレンドリー・フアイア」、あるいは標的の撃ちもらしによる死を招いてしまう。
本書の脱稿時期は、米国のイラク侵攻・占領と重なっており、日々のニュースと自分の関心事が結びついていることを無視できなかった。主要なソースから「翻訳と戦争」の現在進行形の記録ログを切り抜き、収集することにした。目を惹いた例をいくつかあげておく(定期的に自動更新されるディスクのフォーマットでだせれば本当はよかったのだけど)。

二〇〇三年七月二十五日/『ニューヨーク・タイムズ』/ニール・マクファーカー/バクダッド、イラク、七月二十四日/今夜、テレビ画面にウダイ・フセインとクサイ・フセインの写真が映しだされると、繁華街にある「ゼインの床屋」では議論が噴出した。居合わせた男の半数はかつての圧政者の死にわきたったが、ほかの者たちの主張では、独裁者の息子二人は襲撃された場所にはおらず、画像は捏造だとした。

二〇〇三年十一月十一日/『アジア・タイムズ』/言語や文化に対する理解力という点で、今日の米国が進めているのは、大国による作戦としては史上最低の水準の極秘任務だろう。

二〇〇三年十一月二十二日/『ニューヨーク・タイムズ』B9面/ジュディス・ミラー「戦争諜報活動をめぐる言葉の戦い」/エドワード・N・ルトワック(変わり者の国防分析官、戦略国際問題研究所勤務)はこう断言する――「工作員になるには詩人にならねばならない[…]。ウルドゥー語を六ヶ月間で習得できなくてはならない」。著しい語学力不足のせいで、アメリカ人諜報部員の多くは「コーヒー一杯注文できない」。

二〇〇三年十月七日/『ニューヨーク・タイムズ』/グアンタナモ収容所で、誤訳によるサボタージュの恐怖。米国の通訳にサボタージュ疑惑。憲兵隊捜査官はアラビア語通訳がかかわった取り調べ記録を再調査している。潜入工作の恐れがある。「なかでも恐ろしいのは、アルカーイダの息がかかった関連ネットワークに筒抜けになっていることだ」――こう、ある空軍上級士官は述べている。

二〇〇三年十月八日/『ニューヨーク・タイムズ』/イラクで路上爆弾が爆発、兵士三名、通訳一名が死亡した。

www:thetalentshow.org/archives/000767 では「9・11のテロ攻撃前後のインテリジェンス・コミュニティの活動に関する米国議会両院合同調査」報告書(二〇〇三年十一月発行)の七〇│七二ページが引用され、以下の解説が続く。/所見。9・11以前、インテリジェンス・コミュニティは、大量の対テロ外国語情報を収集していたが、それを翻訳するという難題にあたるだけの余裕がなかった。インテリジェンス・コミュニティの各機関がおかれていたのは、翻訳待ち資料の山、語学の専門家や語学の資格をもった職員の不足、テロ関連最重要言語におけるレディネスが三〇パーセントしかないという事態だった。国家安全保障局(NSA)の言語上級顧問が米国議会両院合同調査委員会にした説明によれば、対テロ作戦言語に従事しているNSA言語局職員の言語レディネス指数は、現在三〇パーセントほどだという[…]。CIA語学学校の校長の証言によれば、CIAが必要とする語学の水準を考えると、CIAの作戦本部は、世界規模の対テロ戦争への用意ができていないにもかかわらず、慣例通りの人員補充と、情報収集指令をつづけている。校長は、同機関において、語学能力向上のためのしかるべき戦略はないとも付け加えた。
……金曜日、当局者と人権保護運動団体が発表したところによれば、これまで軍営語学学校で通訳の訓練をうけた兵員九名が、対テロ戦争の語学専門家不足にもかかわらず、ゲイだという理由で除隊されているという。ウェイン・シャンクス中佐(陸軍訓練教則司令部のスポークスマン)によれば、九名はカリフォルニア州モンテレーの軍営国防語学学校を、今年の課程中に除隊になった。九名のうち六名がアラビア語通訳として、二名が朝鮮語通訳として、一名が中国語通訳として訓練をうけていた。スティーヴ・ラルズ(軍人のための法律擁護ネットワーク)によれば、どの隊員も軍歴は非の打ちどころがなく、従事中の重要任務の継続を希望していたが、性的指向を理由に解雇された。

二〇〇三年十二月十四日/『ニューヨーク・タイムズ』/リック・ブラッグ著『私も一兵士です――ジェシカ・リンチの物語(2)』のデイヴィッド・リプスキーによる書評/軍功がまずもってリンチに帰せられるものではないとしたら、その物語に魅力はあるのかと疑問符をつける評者もいる。(ブラッグは書いていないが、最初とりちがえがあったのは単純な理由からだ。のちのニュース報道によれば、イラク軍の無線会話を傍受した軍は、リンチの所属する部隊の金髪の兵士が実際に果敢に闘ってやられたのを盗聴した。あとから、兵士はドナルド・ウォルターズ軍曹だと判明した。通訳はアラビア語代名詞の「彼」と「彼女」をとりちがえ、リンチだと思ったのだ。)

二〇〇四年五月七日/イラク南部のホワイトハウス収容所に収監中のイラク・バアス党将校が死亡した件について、ブライアン・ロスが報じている(「拘禁中の死――イラク囚人キャンプで、海兵隊予備兵は取り調べをうける」ABCNEWS.com)/弁護士たちの主張では、海兵隊のうちだれもアラビア語を話すことができず、収容所にはひとりの通訳も割り当てられなかった。

 

 個々の事例からわかるのは、イラク戦争とその戦後処理で、無翻訳・誤訳・証拠の視覚情報の「翻訳」の信憑性が、話題の中心を占めていたということだ。捕虜の身におちたジェシカ・リンチが英雄的な抵抗をしたという「神話」は、政府とメディアによって大々的に喧伝されることで骨の髄まで利用されつくした観があるが、ひとつの翻訳ミスをかき消してしまう懸念があった。折しも、軍のホモフォビア的方針のせいで、CIAが手持ちのもっとも貴重な情報源――対テロ作戦に従事していた正規の通訳たち――を放逐したときだった。幾度となく、ブッシュの取り巻き連中の喧嘩腰の単独行動主義ユニラテラリズムは、自らが擁護するモノリンガルじみた主戦論のはけ口を求めてきた。たとえば、イラクでの政府機関共同活動の輪から締めだしをくっているのではないですかというドイツ人記者の質問に応じて、ドナルド・ラムズフェルドは、こう発言している――「知らんと言っただろう。意味がわからんか。英語がわからないのか?」ラムズフェルドの英語限定の応対は、イラクにいる通訳たち――撃ちごろの人間ターゲットとして前線で身をさらしている人々――にアメリカが頼りきっていることを公然と無視する言語的傲慢の症状を示していた(3)。グアンタナモ湾の通訳は別種のターゲットになった。通訳たちは米軍の目には重要容疑者と映り、かなりの数がアルカーイダのスパイの嫌疑をかけられた。メディア戦争の前線ではイメージの「翻訳」が、議論の俎上にのぼることも増えた。フセインの息子二名の遺体と目される画像は、米軍勝利の「証」として広く流布したが、加工画像や偽画像なのではないかという疑惑をイラクの街に呼び、人々はジョヴァンニ・モレッリのように(事実記録の保証としては頼りない)死体の耳や顎鬚を眺めまわすことになった。サダム・フセインがメディカルチェックを受ける悪名高い映像は、独裁者を捕縛した言葉を超えた証拠として全世界で放送されたが、政府が望んだようなメッセージを伝えたわけではなかった。代わりに、映像編集がされているのではないかという疑惑をかきたてたのだ。美術史家のジョン・ミルナーによれば、普仏戦争に応じて急遽(メソニエ、ドガ、ルノワールなどによって)制作された絵画、印刷物、木版画、デッサンには「リアリズム・ルポルタージュ・事実・捏造・プロパガンダが、明確な境界なく連続して存在していた(4)」。言語に劣らず、誤訳されやすい画像は、出来事の信用できない記録のままだ。

 私の考える誤訳とは、戦争技法上の歴とした事項だ――戦略および戦術に不可欠かつ、死体画像の解読法と不可分であり、軍需品マテリエルであって、つまり広義にはインテリジェンスのハードウェアとソフトウェアを指している。誤訳は国交断絶の別名であり、パラノイアじみた誤読の別名である。カール・フォン・クラウゼヴィッツによるいまだ実用に供する定義「戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならない(5)」をなぞって、私は「戦争とは他の手段をもってする誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない」と言ってみたい。別の言い方をすれば、戦争とは無翻訳性や 、翻訳失敗状態が、暴力の極限に達したものだ。

 


(1) MSNBC (October 7, 2002) www.aaai.org/AI Topics.
(2) 〔訳注〕リック・ブラッグ『私は英雄じゃない――ジェシカ・リンチのイラク戦争』中谷和男訳、阪急コミュニケーションズ、 二〇〇四年。
(3) Peter Spiegel, The Financial Times (October 7, 2013).
(4) John Milner, Art, War, and Revolution in France 1870-1871: Myth, Reportage and Reality (New Haven: Yale University Press, 2000), p. xi.
(5) Carl von Clausewitz, On War [Vom Kriege 1832], trans. Col. J. J. Graham (London: Penguin, 1982), p. 119.〔クラウゼヴィッツ『戦争論 上』清水多吉訳、中公文庫、二〇〇一年、六三頁。〕

  

 

毎日新聞2018年5月11日朝刊「今週の本棚」抜粋
評者:鴻巣友季子氏(翻訳家、エッセイスト)

◆現代の翻訳学に必須の一冊
 Adjudantへの誤訳ひとつが普仏戦争の引き金となった--待望の邦訳書がついに刊行された本書には、そんな記述がある。この語は独語では「副官」を意味するが、仏語では「曹長」を指す。しかもこの文書にはビスマルクが戦意を煽(あお)るための“故意の誤訳”(捏造(ねつぞう))があった。
 翻訳とは、言語学や文学、語学教育、せいぜい各国のおつきあいの際に必要なツールとみなされてきたろう、と本書(の原書)は言う。しかし翻訳とはもろに政治の場であり、戦場であり、知力の武器そのものだ。通訳の仕方で裁判の行方が左右される韓国系作家の『通訳/インタープリター』や、ユダヤ人カトリック神父をモデルにした『通訳ダニエル・シュタイン』といった小説を読んでもわかるとおり。言語的マイノリティに属する人間なら古くから勘づいていよう。
 英語帝国アメリカはこうした事実を、9・11テロで今さらながら痛感し、翻訳に対する意識が急激に高まった。これの副次的効果は、翻訳文学の専門出版社が雨後の筍のごとく増殖、成長したことだ。
 さて、『翻訳地帯』は巻頭に、「翻訳可能なものはなにもない」から「すべては翻訳可能である」まで二十の命題を掲げている。書中には、「翻訳は災害」「戦争とは誤訳や食い違いの極端な継続」「翻訳とはクローンのクローン」といった刺戟(しげき)的な定義も満載だ。しかし本書の主要な狙いの一つは、翻訳を新たな比較文学の土台として捉え、その根幹的な役割を論じることである。 (後略)

 

書評本文はこちら(毎日新聞2018年5月11日朝刊)

鴻巣友季子さんのFacebookに掲載された書評はこちら


  

 

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』

『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

翻訳研究と文学を融合する
9.11「同時多発テロ」以降、ますます混迷する世界状況にたいし、人文学はどのようなことばで相対することが可能だろうか?
著者は、「戦争とは他の手段をもってする誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない」という定義から出発し、単一言語(英語)主義がうむ世界の軋轢に警鐘を鳴らしつつ、「翻訳」の観点から新たな人文学のアプローチを模索する。
本書で俎上に上げられるのは、第二次世界大戦中のシュピッツァー、アウエルバッハの思想にある人文主義的コスモポリタニズム、スピヴァク、サイードの惑星的批評、ウリポなどの実験的な言語芸術の政治性、クレオールやバルカン半島の多言語状況の文学、さらには現代アートと擬似翻訳を例にした翻訳とテクノロジーの問題……など多岐にわたる。
「翻訳可能なものはなにもない」「すべては翻訳可能である」――二つの矛盾するテーゼを掲げ、言語と言語の狭間にあるものを拾いあげること、「翻訳中」のままに思考しつづけることを提言する。

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『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』
(エミリー・アプター 著、秋草 俊一郎 訳、今井 亮一 訳、坪野 圭介 訳、山辺 弦 訳)

判型 A5判/上製/420頁
初版年月日 2018/04/20
ISBN 978-4-7664-2518-5 (4-7664-2518-9)
本体 5,500円

  

著者 エミリー・アプター(Emily Apter)

1954年生まれ。1983年プリンストン大学比較文学科で博士号を取得。ニューヨーク大学フランス文学・比較文学教授。
おもな著作に、Feminizing the Fetish: Psychoanalysis and Narrative Obsession in Turn-of-the-Century France (1991), Continental Drift: From National Characters to Virtual Subjects (1999), Against World Literature: On The Politics of Untranslatability (2013) など。

  

訳者 秋草俊一郎(あきくさ・しゅんいちろう)

1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。
現在、日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究など。著書に、『ナボコフ 訳すのは「私」――自己翻訳がひらくテクスト』、『アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像』(近刊)。訳書に、バーキン『出身国』、ナボコフ『ナボコフの塊――エッセイ集1921-1975』(編訳)、ダムロッシュ『世界文学とは何か?』(共訳)など。

  

訳者 今井亮一(いまい・りょういち)

1987年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。2014-15年度サントリー文化財団鳥井フェロー。専門は比較文学など。
論文に、「中上健次の「日本語」について――翻訳研究の視点から読む中期作品」(『れにくさ』第8号)など。共著書に、『スヌーピーのひみつ A to Z』。共訳書に、ハント『英文創作教室 Writing Your Own Stories』、モレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』など。

  

訳者 坪野圭介(つぼの・けいすけ)

1984年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。
現在、同大学院特任研究員。専門はアメリカを中心とした都市文学・文化。論文に、「形式は機能に従う――詩人カール・サンドバーグと建築家ルイス・サリヴァンの摩天楼」(『れにくさ』第8号)など。 訳書に、キッド『判断のデザイン』、シールズ他『サリンジャー』(共訳)など。

  

訳者 山辺弦(やまべ・げん)

1980年生まれ。 東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。
現在、東京経済大学経済学部専任講師。専門は現代スペイン語圏のラテンアメリカ文学。 著書に、『抵抗と亡命のスペイン語作家たち』(共著)。訳書に、アレナス『襲撃』、ピニェーラ『圧力とダイヤモンド』、ダムロッシュ『世界文学とは何か?』(共訳)など。

  

 

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