『メディア・社会・世界』(ニック・クドリー 著、山腰 修三 監訳)

『メディア・社会・世界』

(ニック・クドリー 著、山腰 修三 監訳)

 

2018.11.05 本書の販売を開始しました。

 

「日本語版への序文」より

『ショスタコーヴィチとスターリン』(ソロモン・ヴォルコフ 著、亀山 郁夫 訳、梅津 紀雄 訳、前田 和泉 訳、古川 哲 訳)

私の『メディア・社会・世界』の邦訳が出版されることに大いに感動している。この本は、メディアと権力および社会秩序との関係性についての15年間の思考の集大成として、2012年に英語で出版された。メディアによって媒介された私たちの世界の当惑させられるほどの複雑さを理解するために、主に社会理論を参照しながら理論的諸概念を発展させようとしたあらゆる努力が本書には示されている。

 

メディアとメディア諸制度のまさにその性質が大きく変化する時代、さまざまな場所で多くの人々がメディアを理解するための方法を模索している。この変化はあらゆるスケールの政治、社会、文化の組織化に対してきわめて重大な帰結をもたらす。本書は社会と世界に対して人間がなしうることにメディアがどのように寄与しているのか、という問題を論じている。(中略)

 

情報とメディアのプラットフォームの増加やそれらを自在に横断して移動する私たちの能力の増大は、オーディエンスとしての私たちに届く広告の性質に大きな影響を与えている。その結果、かつてはメディア・コンテンツの制度的生産に対して資金を投じていた経済原理が変容しつつある。そして例えば新聞業界に対し、変化を迫る長期的な圧力を増加させている。無論のこと、それは新聞業界だけの話ではない。また、これらの変化のすべてが国境を越える技術によって突き動かされるというトランスナショナルな性質を持っているために、国際的な視座でメディア・社会・世界の諸関係について考えることが欠かせない。本当の意味でのグローバルなスケールでこれらの議論を活性化させたい、という私自身の望みを叶えるうえで、この邦訳はきわめて重要である。(中略)

 

二〇〇〇年代の後半にメディアのインフラストラクチャーが根本的にかつ多元的に変化した。その結果、国内を見ているだけでは現在生じていることの範囲を的確に把握することができず、今までと変わらないままでいる(ふりをする)ことも不可能になった、という認識が徐々に広まったことももう一つの理由である。例えば、もしブログに関心があるとするならば、韓国やイランにおける展開を考慮する必要がある。それらの国ではさまざまな点でブログの形式が文化的、政治的な重要性を持っているからである。また、もしあなたが市民メディアに関心があるとするならば、本書の執筆後、2011年3月の津波と福島での原発事故をきっかけとして活性化した、独立した市民による情報とデータの交換という革新的な作業を無視してはならないであろう。

 

本書はメディアが社会と世界との間に構築する諸関係とは何か、そしてこれらの諸関係を捉えるために必要な社会理論とは何かを検討しようとする一つの試みである。こうした作業を行ううえでは、日本を含めた世界のさまざまな場所での知見を得る必要がある。たとえ世界の特定の地域の中で記述されているという刻印が避けられないとしても、である。私は本書の邦訳が出版されることで日本からどのような反応が返ってくるのか大きな関心を持って待つことにしたい。

 

本書の筆者である私にとって、さまざまな国で読まれることがなぜ重要なのかに関する二つの特別な理由がある。その一つは、本書の鍵となるテーマに関わっている。つまり、制度的に生産された巨大なメディアが大規模な社会において、(社会的なものを眺めるための「窓」として)国民の注目を集める焦点としての役割を依然として果たし続けているのか、という問題である。換言すると、私が「メディアによって媒介された中心の神話」と呼ぶものが長い将来にわたって存続し続けるのか、という問いである。もしそうではないとするならば、メディアによって媒介された社会は以前とはまったく異なった社会的、政治的形態を取ることになるであろう。そして例えば国家を中心とした政治はメディアを基盤とした「現れの空間」(政治哲学者ハンナ・アレントの用語)ではなくなってしまうかもしれない。英国と同様に日本は国民国家を背景としたメディアの制度化の長い歴史を持っており、したがってこれらの問いを検討するための格好の現場である。

 

本書がさまざまな国、特に日本のオーディエンスに読まれるべきもう一つの理由は、理論的概念との関係だけでなく、本書がメディアの諸側面について、比較を通じて理解するための枠組みを構築しようとしていることである。例えば本書の第二章は多様な「実践」を記述するための広く開かれた枠組みを提示している。こうした「諸実践」は今や、日常生活の中でメディアと関連する形で生じつつある。高橋利枝をはじめ、日本の研究者たちの研究は、オーディエンスの諸実践が世界中で多様に異なっている点についての理解を広げるうえで大変重要である。まさに、この枠組みは地理的な、あるいは歴史的な比較の双方に対して意識的に開かれたままの状態にある。

 

本書の後半(第七章)では、世界を横断する形での「複数のメディア文化」を比較するための明確な一つの枠組みを提供している。比較の視座を発展させようとする関心は本書の最終章(第八章)でも明示されている。この章ではグローバルな視野でメディアの倫理の可能性について省察が行われている。こうした視野は、グローバルなものも含むあらゆるスケールで流通するメディアの諸問題に取り組むうえで適している。また、同章ではメディアの諸資源のグローバルな配分をめぐる正義や公正をめぐる論争を構築する可能性についても考察を加えている。 したがって、これらのさまざまな点から、私のこの本は日本語に翻訳されるその時を待っていたのだといえる。

 

私はこの邦訳の結果、メディアと社会理論に関する議論が日本で活性化することを大変楽しみにしている。そして幸運にも私がそれに触れる機会に恵まれれば、メディア・社会・世界に関する私のこれからの考えに大きな影響を与えることになると確信している。(後略)

 

ニック・クドリー
(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカルサイエンス 教授)

  

 

『メディア・社会・世界』

『メディア・社会・世界』(ニック・クドリー 著、山腰 修三 監訳)

メディアが社会や人々の日常に与える影響とはどのようなものか?
現代社会はメディアを通じてどのように秩序化されているのか?

Google、Twitter、YouTubeなどメディアのデジタル化が進むなかで、
メディアと日常生活、権力、社会秩序、民主主義の関係を問い直す。

さまざまな社会理論を渉猟しながら、メディアが飽和する時代の正義や倫理とは何かを問う、
メディア理論研究の第一人者の重要著作、待望の邦訳!



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概要・仕様

判型 A5判/並製/448頁
初版年月日 2018/11/15
ISBN 978-4-7664-2544-4 (4-7664-2544-8)
本体 4,600円

  

著者 ニック・クドリー(Nick Couldry)

ニック・クドリー

1958年生まれ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカルサイエンス(LSE)教授。
主な著書にMedia Rituals: A Critical Approach (Routledge, 2003), Contesting Media Power: Alternative Media in a Networked World (共編, Rowman & Littlefield Publishers, 2003), Why Voice Matters: Culture and Politics After Neoliberalism (SAGE Publications, 2010), The Mediated Construction of Reality (共著, Polity, 2017)など。

  

訳者 山腰 修三(やまこし しゅうぞう)

1978年生まれ。慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所准教授。
慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。博士(法学)。
主要業績:『コミュニケーションの政治社会学――メディア言説・ヘゲモニー・民主主義』(ミネルヴァ書房、2012年)、『メディアの公共性――転換期における公共放送』(共編著、慶應義塾大学出版会、2016年)、『戦後日本のメディアと原子力問題――原発報道の政治社会学』(編著、ミネルヴァ書房、2017年)など。

  

 

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