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『福翁自傳』の徹底解明の大事業


三田評論 2006年10月号 書評(70頁〜71頁)に掲載

『「福翁自傳」の研究』
(佐志傳〔本文編〕、河北展生〔註釈編〕編著)

芳賀 徹(京都造形芸術大学学長)

 
 
 『福翁自傳』は岩波文庫旧版解題で小泉信三氏が言うように「歴史的場景や或時代の風俗を目に睹(み)るやうに描き出し」、その叙事は自由自在、「文面全体に餤剌たる生気」が溢れている。どこの章からでも、読み出したら面白くてやめられない。

 だが、まさにそれゆえに、これをあらためて自分の執筆に引用したり、授業で講読しようとしたりすると、はたと行き詰まって難儀することがある。書中にあまりにも多い固有名詞や特殊事項や幕末維新期の俗語の説明に、つまずいてしまうのだ。

 その難儀克服のためのもっとも有力で堅牢な手立てとなってくれるのが、このたびの箱入り二冊本の大著『「福翁自傳」の研究』である。まず、この尨大な事業をなしとげた編著者のお二人、河北展生、佐志傳という福澤研究の大ヴェテランの根気の強さ、研究対象への執念と言ってもよい徹底した密着ぶりに、驚嘆し、敬服せずにはいられない。

 佐志氏編の「本文編」は『福翁自傳』の周到きわまりない校訂版である。明治三十年秋から、福澤が速記者矢野由次郎に口述してすぐに原稿におこさせたものを青インクで印刷し、福澤がそれに加筆訂正した分を黒インクで印刷した。これを底本とし、最初の浄写本から「時事新報」に連載の分、さらに単行本としての初版(明治三十二年)から今次戦後の全集版にいたるまでのすべての異文(ヴァリアント)を、仮名遣いの一つについてまで調べあげて、頭註としたのである。目がまわるような大仕事だ。私には、福澤の加筆訂正が想像をこえて徹底したものであったことがわかるだけで、佐志氏のこの校訂版を今後どのように使いこなしてゆくべきか、正直のところまだ見当もついていない。

 これと対(つい)になって、河北氏の「註釈編」は、『自傳』本文の進行を追って、その文中の特記すべき事項を各ページ各行ごとに拾いあげ、これに能うかぎり詳細な註解をほどこした。その上に各章末には、本文を少々離れても本文理解を豊かにする背景説明や学的新情報が、何項目かの「参考」としてたっぷりと盛り込まれている。石河幹明、富田正文両先達の諭吉伝はたしかに堂々たる業績だった。本書にも大いに活用されている。だが、『福翁自傳』に即して、その記述内容の周辺と奥行きに周到に目を配って、福澤の生涯の明暗とその細部を同時代史のなかにこれほどくまなくよみがえらせた研究というのは、他にまだなかったのではなかろうか。

 しかも、上下二段組み四百頁にもおよぶ「註釈」は、読んで行って、まことに面白い。  たとえば、冒頭の「幼少の時」の章で、諭吉が子供の頃から手先が器用で、なんでも自分で工夫して作ったり直したりした話が出てくる。実に愉快な一節だが、福澤は「都(すべ)てコンナ事ハ近處ニ内職をする士族があって其人ニ習ひました」と言う。するとたちまち河北氏は、この「近處ニ内職をする士族」に全一頁におよぶ註釈をつける。そのなかで氏は、福澤の論説「旧藩情」を引いて中津藩下士の内職による稼ぎの詳細を伝えるにとどまらず、同じ幕末下士の筆による「奥平家旧藩事情」の一節を引いて、江戸勤番の同藩下士たちが団扇作りの巧みさで江戸で評判をとり、やがてその洗練された技術を国もとにもひろめたことまで教えてくれる。しかも註釈はそれで尽きず、福澤の言う「近處の士族」とは、中津の福澤家のすぐ斜め前に住んでいた井口という男のことだろう、との推定さえする。まさに、脱帽(シャポー)!だ。

 この項のすぐ後には「頬冠は大嫌ひだ」との一項が来る。これは福澤が当時の武士の風俗として、町に買物などに出かけるときはそれを恥じて夜頬かむりをして行ったことを語り、自分はそんな旧弊は「大嫌ひ」で白昼堂々大小をさして出かけたと述べる一節だ。こんななにげない一句にも話がついて、福澤の「旧藩情」のみならず会津藩内の布告や、逆に町人の都市大坂での帯刀規制の例までが引用される。

 さきに、この註釈書は福澤の生涯を『自傳』よりもさらに広い歴史の文脈(コンテキスト)のなかによみがえらせると書いたのは、以上のようなことを意味する。右は初章のわずか二例にすぎないが、この種の探索がおよそ四百項目にもおよんで試みられてゆくのだから、壮観である。だが、一方では、どうせならさらに多くの事項に註釈・読解を付して貰いたかったという欲も出てくる。

たとえば、「長崎遊学」の章で私が大好きなのは、安政元年二月、諭吉がいよいよ中津を出発するところで、「故郷を去るに少しも未練はない、如斯(こんな)處ニ誰が居るものか一度出たらバ鐵砲玉で再び帰て来はしないぞ今日こそ宜(い)い心地(こころもち)だと獨り心で喜び後(うしろ)むい向て唾(つばき)して※々と足早ニかけ出した」と、啖呵を切り、大見えを切る一文である。

 これについては、「参考C」の項に、この出発の直前に中津藩内で下士の身分格差の強化に反発する不穏行動があり、これに対する藩の処分の理不尽さに諭吉は憤っていた。それが彼をこの言行に駆り立てたのだろうとの記述がある。なるほどそうなのか、と納得する。また長崎で同学の、藩の家老の出の奥平壱岐は、『自傳』ではずいぶん露骨に悪口を叩かれているが、実は彼が諭吉に援助を約束して長崎に来させたのではないか、とも推測されていて、事の意外に私などはあらためて驚く。

 だが、それでも、小泉信三氏なら「好んで伝法な捲舌風の俗語を取り入れ」たとも評したような、福澤のこの種の独特の語法・文体についても、もっと河北氏流の読解をほどこして欲しかった、と思わずにはいられない。だがこれは畢意私のような文学系からの贅沢な願いにすぎないだろう。河北・佐志両氏のこのテキスト校訂と註釈の大事業を頼りに、さて私たちもこれからもう少し福澤読解に精を出すこととしよう。


※はこのサイトでは表示されない漢字です。(颯の略字かと思われます。)PDFファイルには表示されています。


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