「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」――。
福沢諭吉が『学問のすゝめ』の冒頭でこう宣言したのは、明治五年のことであった。福沢は続ける。人は生まれながらにして平等であるのに、なぜ富める者と貧しい者の差が生まれるのか。「唯学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」。この書が『学問のすゝめ』と題されたゆえんであり、時代は、固定化された身分の時代から、実力による立身の時代へと、変貌しつつあった。
当時慶應義塾では、この言葉を象徴するような情景が展開されていた。かつての武士たちに混じって、岡山や青森の農民の子が、東京の商人の倅が、能登の医師の息子が机を並べて学び、実力主義の波に挑もうとしている。なかには、つい数年前まで殿様だったひとたちもいた。松平、牧野、榊原、酒井……生まれながらにして「貴人」であり「富人」だった旧大名たちが、元家臣たちと一緒に洋書と格闘している。
そのなかに、本書の主人公、岡部長職(おかべ・ながもと)の姿もあった。
岸和田藩最後の藩主だった彼は、廃藩置県によって藩地を去り、上京してあちこちの塾で英学の習得に励んで、やがて慶應義塾に入塾する。福沢の斡旋を受けて明治八年にアメリカに留学、名門イエール大学に学び、帰国後は外務次官、貴族院議員、東京府知事、司法大臣などを歴任して、いわば「学問を勤て物事をよく知る者」として、「貴人となり富人」となっていった。その人格は、殿様時代の鷹揚さと教養、そして留学経験で得た知識と先進性を備えた、特長あるものとして形成された。
藩主を経験した人物のなかで、維新後もエリートとして再生し、大臣にまでのぼりつめた例は少ない。では、藩主時代から晩年にいたるまで、長職を支え導き続けたものとは何だったのだろうか。統治者の地位を失ってなお、家臣と机を並べて学ぼうとするとき、その胸中に去来していた心情とは、いかなるものだったのだろうか。彼ら殿様経験者たちを、明治政府はどのように遇し、その政策的、時代的環境の中に包み込んでいったのだろうか。
このような問いを抱きながら、本書は、長職の出生や少年時代の教育、家庭環境からはじまり、彼が直面する幕末維新期の政局や維新後の華族政策、彼が取りくむ条約改正交渉や司法行政、東京府政、貴族院での政治活動、大陸での開発事業などを分析し、さらに洒脱な「風流宰相」と呼ばれた趣味の人、感性ゆたかな詩人としての側面や、家庭人、キリスト者としての側面にも目をむけて、その激動の時代と包容力にみちた人柄の描写をこころみたものである。
近代草創期に生きた長職の挫折と再生、笑顔と冗談にあふれた人生は、その時代の延長に生き、大きな変化の時代にある我々にも、何かを語りかけずにいないであろう。
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