近年の乱用とも言える「デザイン」の多用は、世の中の様々な側面でこのツールが有効であることを意味している。現在の諸問題は多様な要素が絡みあって創発する場合が多く、もはや1分野の知見のみで解決することは困難である。だからこそ、制約をポジティブに捉えて総合的に問題解決をはかっていくデザインというツールが重宝されるのであろう。
本来、一般的ないわゆる「デザイン」(プロダクト、グラフィック、ファッションなど)は、身体的な行為による感覚的な思考を中心としている。それゆえ、一般的な認識ではデザインという職能に就ける人は、特殊な才能を持った選ばれた者とされている。絵心がないとか、センスがないという言い回しは、それが普遍的な能力ではなく取得することも困難であるから、普通の人は諦めた方がよいというニュアンスを含んでいる。
ここで浮き彫りにされる問題は、様々な分野でデザインによる解決が求められている一方で、それを駆使できるのは限られた一握りの人材であるということだ。デザインが、問題領域を分解・分析するアナライズのプロセスとそれを組み上げるシンセシスのプロセスから構成されるとすると、前者は十分に明文化され普及しているが、身体感覚を伴う後者についてはブラックボックスの部分があまりに多い。感覚と理論を結ぶ思考法が強く求められている。
ここで視点を作り手から使い手に変えて考えてみよう。デザインとは感覚的なものであるが、優れたプロダクトを前にするとそこには最大公約数的な理論が埋め込まれていると感じることはないだろうか? また、シリーズ化されたプロダクトに対峙する時、その使い方をすぐに理解できるのはなぜであろうか? そこには自然言語とは異なるデザイン における感覚の言語が存在していると考えたい。
ラインフランクとエヴェンソンによると、デザイン言語とは、デザインされた人工物をとおしてユーザとデザイナーがコミュニケートするための要素とルールの集合体である。デザイナーは色やフォルム、テクスチャなどの要素を駆使して、プロダクトの使い方、そこに込めた思想、夢のライフスタイルなどを伝えるのだ。デザイナーと呼ばれる人たちは、感覚的なものをロジカルにプロダクトに落とし込む言語を確実に用いている。
言語である以上、そこにはルールと要素、そして様々な場面における用例の集合があるはずである。例えば、英語という自然言語は、アルファベットという要素やそれらを組み上げた単語、イディオムという要素が存在する。そしてそれらを組み合わせる文法というルールが存在し、無限の表現を生み出すことが可能である。
言語である以上、どんな人でも努力をすればあるレベルまでは習得できるはずである。ダイナミズムに富んだ演説で聴衆を感動させることができなくても、詩的な言葉を紡いで異性をうっとりさせることができなくても、最低限の言葉をあやつり相手に自分の意思を伝えることは誰にでもできる。デザインも同様ではないだろうか。たとえ鳥肌を立たせるような作品が作れなくても、最低限の要素とルールを組み合わせることができれば問題を解決するソリューションを誰でも作れるようになると考えたい。
話は変わるが、バウハウスは産業革命による大量生産・規格化の流れに最適化されたデザイン理論であった。また、ミッドセンチュリーモダンの家具は合板形成や樹脂などの材料技術が発展した時代背景を受けている。同様に、情報技術が発展した現在にあって、我々がデザインするものはこれまでの延長線上にあるものだけではなく、物質と情報の双方を素材としたものであるべきだろう。
マーク・ワイザーが提唱したユビキタスコンピューティングは我々の生活を一変させるだろう。ユビキタスとは「偏在」を意味しており、超小型化したコンピュータが様々な物に組み込まれ相互にネットワーキングすることを示す。このパラダイムによって、我々がデザインするモノはその色・形・テクスチャといった物理的な要素だけではなく、そこでやり取りする情報の質、さらには埋め込まれるソフトウェアと物理的要素との組み合わせなどを考慮する必要がでてくる。
本書が対象にするのは、ユビキタス時代のデザインである。そこで本質的に求められるのはユーザとデザイン対象の相互の情報のやり取り、つまりはインタラクションである。外観を構成するフォルムやテクスチャ、機能を司る電子回路やソフトウェア、それらによって作り出される概念モデルなど、あらゆる要素を考慮しなければ、優れたインタラクションは実現できない。
デザインの語源はdesignate(指し示す)であり、その時代時代で我々の生活の行方を牽引する役割を果たしてきた。そして今、ユビキタス時代の新しいモノ作りの方向性を指し示すことがデザインに求められている。
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