「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」(ヘルマン・ヘッセ、高橋健二訳『デミアン』新潮文庫、1951年)
筆者自身が思春期だったとき、この一文に支えられてきた記憶があります。自己を確立するために世界を破壊せざるをえない衝動を、自分に正当なものと位置づけるために、この文章が必要だったように思います。
先日、「思春期を迎えるわが子にどう向き合うか」という講演会を依頼されました。その打合せの中で、保護者たちは、子どもが思春期に入ることを「怖いこと」として語っていました。日本では娘が初潮を迎えるとお赤飯を炊くという風習もあるわけなので、なんとも違和感がありました。そこで気づいたのは、「思春期」という言葉が「反抗期」という言葉と同義で使われているということ、そして親の幸せのために、子どもが不快を表出しないように育てる傾向が強い昨今、子どもが不快を表出するようになるらしい「思春期」は、親に強い予期不安をもたらしているということでした。
思春期=反抗期ではありません。思春期は性ホルモンが分泌されて、子どもを産むことができる身体に成長する生物としての発達の時期をさしている言葉です。思春期は身体の成長・変化によって始まります。並行して心理面においても「自己の確立」が大きな課題になります。それは、親の感情と自分の感情は違うということを確認して、親とは別の存在としての自己を作り出すというプロセスです。だから、思春期は「(親からみると)反抗期」になると一般的に理解されているわけです。「反抗期」を支えている思春期の衝動性は、こういった心身の変化から必然的に生じるものであって、本来は健康なものです。その衝動性によって、殻をやぶり親からの自立を果たし、自己を確立することができるのです。
しかしながら、思春期に至るまでの乳幼児期・児童期の親子関係のあり様によっては、ゆがんだ衝動性が表出されることになります。問題は「思春期」ではなく、それまでの親子関係なのです。乳幼児期から児童期において、自分自身の不快感情や身体感覚を親から承認されてきた子どもは、不快を含めた自己を統合することができるので、思春期において思わず衝動性が発露することがあったとしても、理性的な自己からさほど逸脱することはないのです。しかしながら、泣いたりぐずったりすれば愛されないという関係性の中で育ってきた子どもは、自己の不快を解離させた自我状態で親に適応してくるために、思春期になって親から自立したいという衝動性に突き動かされたときに、それまでに封印(解離)していたネガティヴな自我状態が暴走するという逸脱が起こるのです(大河原美以『子どもの感情コントロールと心理臨床』日本評論社、2015年)。
思春期の深刻な問題を予防するために、今切実に求められていることは、幼児期の段階で、子育てに苦しんでいる親子を専門的に支援することができる体制を作ることでしょう。そして、思春期に限らず、子どもが不快を表出することは成長のために大事なことだということに、大人が心を開くことが、いま求められているのだと切に感じます。
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