差別とはいったい何か、どうして差別は起きるのかということを明確に語れる人がいるでしょうか。千葉県で障害者差別をなくす条例を作る際に差別事例を募集したところ、当初はほとんど集まりませんでした。何が差別なのか自分自身わからないからです。それでも「悔しい思いをしたことを教えてください」と説明すると続々と集まり、結局は 800件を超えました。
・障害があるが“普通学級に通いたい”と言ったら、「お宅の子は普通じゃないんだから」と
教育委員会に言われた。
・“多動の子は受け入れられない”と自閉症児が保育園の入園を断られた。
・「障害児がいるのに、また産むのか」と福祉事務所の窓口で言われた。
・じっと座っていられない自閉症児が診察を断られた。
・駅にエレベーターがないので、車いすの人が電車を利用できない。
こうした事例の数々は日常生活のさまざまな場面で障害者が排除され傷つけられていることを雄弁に物語っています。ただ、その原因を探っていくと、必ずしも偏見や蔑視だけが差別を生んでいるわけではないことがわかります。多動などの障害特性が誤解され、あるいはどう対処していいかわからずに医療現場や保育園で拒否されてしまう、財政的な理由ですべての駅にエレベーターを設置できない、そのような例が多いのです。
また、「障害のある子が白い目で見られる」「『障害児がいるのにいつも明るいのね』と言われる。どうして暗くしていなければならないのか」という事例もありました。「白い目」というのは客観的に立証することが難しく、周囲の視線をどう感じるのかも人によって異なるでしょう。同じ言葉や態度でも、相手との関係性やどういう状況の中で言われるのかによって意味合いは変わってくるのです。
もちろん、あからさまに障害者を侮辱したり差別的な取り扱いをする人もいます。「お前たちは国が認めたバカだ」。多数の知的障害者を虐待していた工場経営者はそう言いました。しかし、この経営者も当初は情に厚い人として地元では知られ、行政や養護学校や親たちから厚い信頼を得ていたのです。経営の苦しさや障害者を指導する苦労から生じるストレスのはけ口として次第に障害者を見る視線がゆがみ、言うことをきかない障害者に厳しい態度を取り、手を挙げるようになったとき、この経営者の誤りを指摘し諭す人が周囲にいなかったのです。むしろ、経営者の行為を正当化し追従する人々のほうが多く、それが経営者を錯覚させ虐待へとエスカレートさせていったのではないのでしょうか。ある被害者の父親はこう言いました。「こんなかわいそうな子たち、少々ぶたれたっていいんです。あの社長は神様みたいな人だと思っている」
幼いころからのしつけや教育、慣習や文化などがゆがんだ障害者観を形成していることも否定はできません。わが国は分離教育が原則で、障害があると近くの普通学級ではなく養護学校(特別支援学校)へ分離され、一般の児童生徒の視野から障害児を消すことになりました。知らないものに対して警戒心や不信感を抱くことはよくあり、それが誤解やゆがんだ先入観と出会うことによって負の心理形成に拍車をかけていくのです。無知こそが差別を産み育てる構造の核心部分であるのかもしれません。
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