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巻頭随筆

劣化の容認と体罰     寺脇 研

 

 体罰とは、児童・生徒の心身に対して何らかの危害を加える行為である。そうでないとしたら懲戒の用をなさない。体罰は子どもに危害を加えること、そこをまず、はっきりさせておこう。教育のためならとか、愛があればとかの許容する理屈は、また別次元のことだ。

 これを読んでいる皆さんは、他人を殴る、叩く、突き飛ばすなどの形で危害を加えたことがあるだろうか。わたしは、六十年を超す人生の中で一度もない。

 いや、一度だけあったか。文部省(当時)に勤めていた三十代後半の頃だ。生涯学習振興法という法律を作る作業の現場責任者をしていたときである。連日朝まで業務が続き、役所の会議室で仮眠をとるのがやっとの苛烈な日々を送っていた。そんななか、一人の若い職員が、一晩だけ職場を抜けさせてほしい、とわたしに申し出てきた。友人が仕事を辞めるかどうか悩んでいて、今晩相談しないと大変なことになるという。

 わたしの権限で、彼に暇を与えた。ところが翌日の夕方になっても帰ってこない。作業チームの中でも彼の不在が問題になり始め、休みなく働く他の職員に納得してもらえそうもなくなってきていた。そこへ、「すみません、相談が長引いて今帰ります」との電話。彼が再び仲間の信頼を得るためには皆の前での懲戒が必要と思った。といってゆっくり話し合ったり説明したりする時間的余裕はない。皆、精神的にも追い詰められていた。

 職場に戻った若者に対し、わたしは叱責の言葉と同時に平手で?を叩いた。彼は謝って泣いた。「仕事に戻れ」と命じた次の瞬間、チームの中のわだかまりは消え、それまでと同じく彼を含めた全員が全力で作業に向かう。しかし、叩いたわたしは人に危害を加えたことの重みに深く動揺していた。はたして叩く必要があったのかを自問し、隠れて涙をこぼしたのを憶えている。

 あんな思いは、二度とごめんだ。

 さて体罰である。子どもを叩く教師は、わたしのような動揺を覚えないのだろうか。相手は自分より弱い存在であり無抵抗なのだ。叩いて平静でいられること自体、わたしには考えられない。子どもに危害を加えても平気になってしまうのは、心の劣化だろう。教師が自身を劣化させてはいけない。体罰は子どもを傷つけるだけでなく、教師自身をもスポイルするのである。法で禁止されているからではなく、自分を醜い人間にしないために体罰はやめたほうがいい。

 体罰なしでは統制がとれない? そんなことはないだろう。

 昨夏わたしは、福島の子どもたちに放射能の心配なく北海道で長期自然体験をしてもらう民間活動「ふくしまキッズ」で、四十人あまりの小学生を北海道・大沼から郡山まで引率するボランティアを務めた。学校も学年も違う子どもたちに三回の乗り換えをさせる、バスと鉄道の旅だ。子どものいないわたしには、子連れ自体初体験。当然、たいへんな難行である。でもその間、体罰はもちろん、声を荒げることも一切なく任務を全うできた。大人が毅然とした姿勢で率先して行動すれば、子どもはついてくる。叱ったり怒鳴ったりしたら自分がダメになると思って通した結果だ。

 われわれは大人なのである。体罰を行使しなければ子どもを制御できないのなら、こちらの未熟を恥じねばなるまい。

 

 
執筆者紹介
寺脇 研(てらわき・けん)

京都造形芸術大学教授。映画評論家。東京大学法学部卒業。文部科学省大臣官房審議官、文化庁文化部長などを経て現職。近著に『百マス計算でバカになる』(光文社、2009年)、『2050年に向けて生き抜く力』(教育評論社、2009年)、『コンクリートから子どもたちへ』(共著、講談社、2010年)、『「官僚」がよくわかる本』(アスコム、2010年)、『「フクシマ以後」の生き方は若者に聞け』(主婦の友社、2012年)、『「学ぶ力」を取り戻す』(慶應義塾大学出版会、2013年)など。

 
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