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巻頭随筆

「発達障害の見極め」の意味     田中康雄

 

 昔、あきらめるとは、明らかに極めるという意味であると、ある母親から聴いた。

 「私は、うちの子をあきらめたの。今までずっとがんばって育ててきて、明らかに、この子のこと極めたの」とおっしゃった。母親としてこの子の奥底まで知りつくし、みとどけたという自負からの語りだったのだろう。その子は発達障害をもち幾多の苦難に躓き、乗り越え、今を強く生きている。

 改めて、発達障害の見極め、ということについて考えてみる。

 まず、これは発達障害を極めるということではない。つまり発達障害を学問的に深いところまで理解し探求するということでは、ない。発達障害の有無を確認することである。発達障害か否かという真偽を確かめ、迷いやためらいを捨て、整理し、これだと定める決心が求められる。

 容易なことではない。

 さらに最後までみとどけ、奥底までを知りつくすのは、発達障害ではなく『発達障害をもって生きるその人』の在りよう、生きざまのことである。

 不可能であろう。もう少し考えてみる。

 現在の発達障害は、症状の有無というカテゴリー的診断には馴染まず、特性の程度、強弱という次元的診断で判断される。でも、これは、まだ正式見解ではないので、僕の理解としておく。でも実際にどの程度の社会性の躓きやコミュニケーションの苦手さ、不注意や落ち着きのなさなどを『異常』と判断するかは難しい。おそらく共通感覚をよりどころにしているのだろうが、それが本当に正しいかと問われると心許ない。結局は、今を生きているなかで、ほぼ当たり前の共同生活のなかで、言動が逸脱しているか否か、許容範囲を超えているかを、次元的に判断したに過ぎない。だから僕は、発達障害か否かという真偽を確かめ、迷いやためらいを捨て、整理し、これだと定める決心が常に揺らぐ。今この瞬間の刻を切り取っての判断ではなく、その子のこれまでに思いを馳せ、今後を予測するなかでの決断となる。どれほどの尺度や基準を設けようとも、そこで評価されたものが、その子を完璧に評価したものではない。当たり前のことだ。

 発達障害があるということは、当の本人が不確実な生活のなかで、常に「生きづらさ」を感じていることでもある。つまり社会的に外的に構成されたものを次元的に判断しただけではなく、生きづらさという内的な苦闘も、発達障害があるという方に存在すると思われる。だからこそ、その人の内面に近づくことなくして判断はできない。しかも、その人でない限り、どれほど近づき思いを重ね、想像しても、その苦悩にぴたりと重なり合うことは絶対にない。

 「あなたには、僕の気持ちを完全にはわからないと思います。でも、わかってほしいとも思わないです」。つい最近言われた言葉である。人には、接近してよい部分と、不可侵領域がある。これも当たり前のことだ。

 発達障害を見極めるということは、こうした難しさを常に自覚しておくことではないだろうか。自戒を込めて考えた。

 
執筆者紹介
田中康雄(たなか・やすお)

こころとそだちのクリニックむすびめ院長。北海道大学名誉教授。専門は児童青年精神医学。獨協医科大学医学部卒業。旭川医科大学精神科、国立精神・神経センター精神保健研究所児童思春期研究室長、北海道大学大学院教育学研究院教授を経て現職。著書に『軽度発達障害』(金剛出版、2008年)、『支援から共生への道』(慶應義塾大学出版会、2009年)、『発達支援のむこうとこちら』(日本評論社、2011年)など。

 
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