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立ち読み  
編集後記  第57巻3号 2009年3月
 

▼先日、本屋に立ち寄った際、ふと下村湖人訳の『論語』を見つけて購入してしまった。世間もそうなのだろうか、昨年あたりから、「賢者の言葉」を探し、癒しや、反省、奮起の材料として、しばしば論語を読むことがある。

▼孔子は思想家であり、教育者である。古典嫌いだった私が話をする義理ではないけれど、勉強の科目としての古典ではなく、人の道を改めて学ぼうとするとき、漢文/中国語の素養が必要になり、その当時の文化や社会とその思想に思いをはせることになった。かつて中学や高校で、そして受験勉強で漢文を勉強していたとき、こうした古典の思想は自分の価値観にどれほど影響を与えていたのだろうか?

▼今月の特集は「夢を育む教育とは」と「いのちの尊さを伝える」である。私たちが、そしてまた子どもたちが、この閉塞感を感じる社会の中で、多くの夢を自分でつぶし続け、人間的な輝きと生きる指針を失いかけていることは、大学の現実を見つめるだけでも十分すぎるほどよく分かる。社会を組み立てる側はバーチャルな効率社会を作れると思いこみ、学生は人生ゲームのような一生を送るつもりであるかのように想像している。
 巷で『蟹工船』がはやるのも頷ける。奴隷制度のような管理的評価ばかりが増殖し、三年寝太郎がさげすまれ、一方でインドのような精神世界にあこがれる。現代社会は目に見える形のものだけを「成果」と称して漁っているようだ。

▼寺田寅彦が「学者は馬鹿でなければならない」と言ったが、管見の限りでは、いわゆる偏差値の高い大学の学生より、低いといわれる大学の学生ほど元気に見えるのは不思議だ。喩えが悪いが、途上国の子どもたちを見ても同じような感覚を持つ。思慮が幼くとも、あらぬ方向でも良いから、気持ちと気概をもってぶつかっていこうとする「馬鹿」な生き方からこそ夢は生まれると思いたくなる。

▼論語に一貫して流れる思想は、仁であり、人間的な余裕のある、決して欲張らない生活スタイルである。優越感に浸らず、自分をさげすみもしない。ただ、社会も絶えず変化していく存在ではある。私たちは、過去への憧憬だけではこれからの将来の夢を持つことはできない。本来、生きる技を教える学校が、生きる力までも教えないといけないと求められる。今模索されている多様な学力観も根はそうしたところにあるのかもしれない。

▼日本社会はグローバリズムの洗礼を受ける一方で、経済の縮小と人口の減少をも同時に受け、中高年には大変な時期を迎えつつあるといえる。そんなとき昔話の語りの中に、指針として描かれる人間性の回復のように、危機を世界として育った若者たちが、その逆境をバネにし、世界を再構築することを期待して、本号の特集を読みたいと思う。

▼昨年より編集委員に加わりました。教育学を、海外、日本から、社会的、文化的に幅広く勉強しています。これからよろしくお願いいたします。

(竹熊尚夫)
 
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