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編集後記  第56巻6号 2008年6月
 

▼幼児期の子どもはいろいろな物事に対して「興味関心」を示し、飽きることなく“遊び(学び)”に熱中する。その「知的好奇心」「探索力」「集中力」のスゴさに、誰しもが感動する。本来、“子どもは、学びの旺盛な世界の探求者である”と認めたくなる。
 だが、幼児期には、何事に対しても「やる気」を示していたはずなのに、学校教育の段階になると、次第に「やる気」を喪失してしまい、何事に対しても無気力感を示す子どもが増大しているという。そこには、子どもだけに原因があるのではなく、大人の教育のあり方が強く反映されているのではないか。
▼子どもの「やる気」は、その子どものもつ「知能観」に依存する。その知能観には二種類ある。第一は、俗に「頭がいい」という言葉に代表されるもので、生まれながらの、一般的な特性とする固定的な知能観である。他者から(社会的に)高く評価される特性であるだけに、この知能観をもつ子どもには、他者から「できると言われたい」というやる気が生まれる。だが逆に“自分は頭が悪いのかもしれない”という不安があると、困難に挑戦することを諦め、すぐに投げ出してしまう。これでは、自分がどこまでやれるかの自己の可能性に直接に向き合うこともなく、現実的な自己認識も生まれない。「頭が良いか悪いか」の評価だけが気になり、その課題に取り組む意義や価値や必要性をも自ら感じられない。他者からの評価に振り回されるだけに、“動かされている自分”の実感しかない。これでは次第に、自分を見失い、「やる気」が衰退していく。
▼それに対し、第二の知能観は、子どもが主体的に課題に取り組み、個々の知的課題に対して努力を続けていく中で、“少しずつ、分かってくる、できるようになる”という変化の過程や進歩(向上)の過程を実感するなかで形作られるものであり、まさに変動するものとしての知能観である。“自分の努力次第で、知能は変化するものである”という実感をもつことができるだけに、学び手の中に「少しでもわかる・できる」というやる気が生まれる。この知能観のもとでは、たとえ自分に自信がなくても、自分が課題に取り組み、自分の努力で一つひとつ問題点を克服しながら変化しているという実感が得られるだけに、マイペースで困難に挑戦していくこともできる。
▼子どもの「やる気」の喪失に対する教師や親の心の叫びの原因解明にあたり、“そのものが意味している本質を誤ってはならない。その心の叫びの矛先は、子どもを非難するものとして、子どもに向けるべきではなく、むしろ今の日本社会・文化の基底に流れている第一の「知能観」への反省にこそ警鐘の矛先を向けるべきである”と私は主張したい。なぜなら“「やる気」を喪失している子どもたちの多くは、われわれ大人が暗黙の価値観(第一の知能観)のもとに子どもに関わり教育してきた結果、次第に子どもの主体性が大人によって奪われてしまった『被害者』”なのだからだ。

(丸野俊一)
 
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