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立読み
日本の家計行動のダイナミズム[U]
菊判/並製/328頁
初版年月日:2006/09/20
ISBN:
978-4-7664-1293-2
 
(4-7664-1293-1)
Cコード:C3333
税込価格:3,520円
日本の家計行動のダイナミズム[U] <
税制改革と家計の対応

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樋口美雄 「序章 本書の目的と概要」より


第1節 本書の目的
 
 わが国の税制をめぐって、いま、さまざまな動きが見られる。少子高齢化の進展を迎え、いち早く財政を再建したいという思いから、税制改革を推し進める機運が高まっている。そしてまた、順調な景気の回復を受け、これまで需要刺激策として実施されてきた種々の減税策を見直す動きも活発化してきた。
 例えば、減税の見直しでは、消費需要の急激な落ち込みを少しでも緩和しようと実施されてきた個人所得税の定率減税が廃止される方向にある。さらには住宅購入を促進するための措置として認められるようになった生前贈与に対する大幅控除も中止される方針で審議されている。
 景気循環的な動きに対する対応ばかりではない。人々の暮らしにおける構造的な変化に対応した税制の見直しも急ピッチで進められている。例えば、個人所得税における配偶者控除をめぐる動きである。これまで政府は、専業主婦世帯は所得も低く、経済的弱者と考えられるとして、従来の配偶者控除に加え、配偶者特別控除を認め、有利に遇してきた。ところが所得の実態を見ると、裕福な専業主婦世帯も多く、公平性の視点から見ても専業主婦世帯を税制上、有利に扱う必要はないとの批判の声が強まった。さらにはこうした多額の控除を認められることによって、有配偶女性が年収を一定の範囲内に調整しようとすることによって就業が抑制され、労働市場が歪められているとの指摘から、すでに配偶者特別控除の一部は廃止され、現在も、配偶者控除の廃止をめぐって議論が続いている。
 たばこ税についても、財政収入の拡大と同時に、禁煙を促進し、国民の健康を増進する観点もあり、たばこ税の引上げが必要であるとして、実施されてきた。さらにはバブル崩壊後の資産価格の低下による人々の損失を緩和するのと同時に、転居を容易にするための施策として、住宅の買い替えなどの譲渡損失繰越控除制度が導入された。
 税制は事後的な所得の再分配に影響をもたらすだけではなく、人々の行動を変え、これを通じて市場の効率性にも影響する。従来から法人税においては、投資減税のように企業行動を一定の方向に導こうとして導入された特定減税が数多く存在したが、個人を対象とした最近の税制改革においても、単に公平性の達成維持のみならず、税額の引上げや引下げなど政策税制的なものが存在する。だが、こうした税制変更がねらったとおりに、はたして人々の行動は変化しているのだろうか。そして変化しているとすれば、どの程度変化しているのだろうか。
 政策効果を検証する上で、「パネルデータ」は極めて有効な統計である。パネルデータは、毎回調査のたびにサンプルが変わる従来の調査とは違って、同じサンプルを長期にわたり追跡調査することによって、経済状況の変化や行動の変化を調べようとするものである。こうしたパネルデータを使えば、税制の変更前と変更後の個人の行動を比較することにより、制度変更の評価分析を行うことができる。はたして制度変更の前後で、人々の行動に変化が観察されるのか、されないのか、あるいはどのような人の行動に変化が見られ、どのような人の行動に変化が見られないのか、変化があるとすればその数量的大きさはどの程度か、変化がないとすれば、制度上どこに問題があるのか。これらを検証することによって、税制改革の効果検討が可能になるはずである。
 もっともパネルデータさえあれば、何でもこうした分析ができるわけではない。調査票にこうした制度変更に関する質問項目が用意されていなければならない。調査票設計の段階であらかじめ検証すべき仮説をいくつか想定し、各種の制度に関する質問項目を組み込んでおかなければならない。
 慶應義塾大学経商連携21世紀COEプログラム『市場の質に関する理論形成とパネル実証分析』は、こうした制度変更や政策の評価が可能になるように調査票を設計し、2004年1月から『慶應義塾家計パネル調査』(KHPS)を実施してきた。本書は、このKHPSの第1回、第2回調査を使って、各種の税制や諸制度における変更が人々の行動にどのように影響しているかを検証することを目的とする。税制をはじめ諸制度の効果分析を行うことは、労働と余暇、消費と貯蓄、住宅投資と金融投資といった資源アロケーションの変化を通じ、労働市場や消費財市場、住宅市場、さらには資金市場の「質」への影響を検討することになり、同プログラムの目的とも一致する。

第2節 本書の概要

 本書は第T部「KHPSの継続・脱落サンプル」の2つの章と、住宅購入・就業・消費・禁煙・家電のリサイクル行動を扱った第U部「KHPSを使った制度改革分析」の8つの章から成る。

 第T部第1章「パネルデータ継続と回答行動の分析」では、2005年に実施されたKHPSの第2回の標本特性を明らかにするため、前年実施の第1回から第2回にかけての回答の継続性や脱落を属性別に検討することによって回答サンプルに歪みが発生してないかどうかを検証する。さらに質問項目別の回答状況を把握し、サンプルの回答行動について検討を加える。その結果、フリーターやニートであった者はその後の追跡が難しく、回答率が低下するといった傾向が見られた。一方、従来の仮説では就業しており所得が高かったり、あるいは子供が多いサンプルのほうが忙しいため調査票に回答する機会費用が高く、脱落率が高く無回答の質問項目が多いように思われていたが、そうした有意な差異は見られなかった。すなわち、必ずしも機会費用の高い人の回答率が悪いといった傾向は見られず、この意味ではサンプルにバイアスが発生しているとは言えないことが明らかにされる。

 第2章の「KHPSにおける回答率の変化とその影響」では、第1回調査と第2回調査の回答状況を比較し、標本磨耗の程度や脱落者の特性、調査項目ごとの回答率の変化を調べ、調査票を設計する際や分析する際の留意点を検討する。その結果、第1回調査において無回答項目の多かったサンプルの第2回調査における脱落率が有意に高くなっていることがわかった。もっとも第1回調査を使って分析しようとしたとき、各質問項目に無記入のサンプルが除外されることが多いため、第2回調査の脱落サンプルは第1回サンプルを使った実際の分析には利用されなかった場合が多く、数字上現れた脱落率よりも、分析に耐えうるサンプルに限定したときの脱落率は低いと言うことができる。また選択肢方式の回答項目と数字記入方式の回答項目では前者の項目に対する回答率が高く、脱落サンプルを少なくするためには、回答数とともに回答方式の検討が必要であることが指摘される。

 以上の2つの章がKHPSの特性を明らかにし、これを用いて分析する際の留意点を示したのに対し、3章からの8つの章ではこれを用いて、税制はじめ各種の制度が家計行動に与える影響について実証分析し、政策効果の有無を検証している。

 第3章「現行借地借家法・譲渡損失繰越控除制度は人々の転居を容易にしたか」は、定期借家制度の導入や所得税における当控除制度の導入が、住宅価格の変化や家賃の変化を通じ、転居に及ぼした影響について検証する。KHPSの第1回調査、第2回調査を使ってハザード分析を行った結果、住宅購入価格と比べて借入残高が多い持ち家ほど転居は阻害されているが、住宅の買替えなどの譲渡損失繰越控除制度の創設によって、このような持ち家世帯の転居が容易になったこと、また借家からの転居に関しては、現行の借地借家法には定期借家契約が導入された後も依然として転居の阻害要因が存在することが示された。

 第4章「贈与税制の変更は若年家計の住宅購入を促進したか」では、若年家計の住宅購入と世代間移転や不確実性の関係に着目し、住宅購入のタイミングに贈与税の控除額の拡大が影響を与えているかどうかを検証する。KHPSの住宅や就業状態に関する回顧データを用いて、離散時間イベント・ヒストリー分析手法により分析した結果、世代間移転としての贈与は住宅購入確率を引き上げる効果があり、生前贈与促進を目的とする近年の税制改正は住宅購入を促進させる効果を持つことが確認された一方、労働市場の不確実性の高まりは住宅購入を抑制し、この効果は親からの贈与による促進効果によって部分的に相殺されることが判明した。

 第5章「配偶者特別控除の廃止は有配偶女性の労働供給を促進したか」は、有配偶女性の労働インセンティブを阻害しているとして2004年から所得税配偶者特別控除の上乗せ部分が廃止されたが、はたしてその結果、現に労働供給は促進されたかについて検証する。特にこの章では就業選択と労働時間の2つの尺度に注目し、KHPSの第1回および第2回調査を用いて分析した。そこではさまざまな分析が試みられるが、その結果、配偶者特別控除の上乗せ分の廃止は、女性の就業選択には影響を与えておらず、効果は確認できない一方、労働時間には若干の影響があることがわかった。

 第6章「日本における賃金は本当に勤続年数とともに上がるのか」は、通常、クロスセクション・データに基づき指摘されてきた年功賃金の存在を、同一個人を追跡調査したパネルデータの長所を活かし、個人特性をコントロールしたうえでも勤続の延長により賃金が上がるかを、正規・非正規労働者のサンプルを用いて検証した。その結果、勤続年数に対する賃金評価は正規労働者については確認されるが、非正規労働者については確認できないことが示された。他方、自営業主の所得と正規労働者の賃金を用い勤続効果を比較してみると、明らかに正規労働者のほうが大きい。このことは自営業主の所得はその人のそれぞれの時点における生産性を反映していると思われるが、それよりも正規労働者の賃金カーブが急勾配になっているということは、勤続とともに生産性以上の賃金を支払うことによって長期勤続のインセンティブを高めようとしているか、あるいは正規労働者の生産性上昇が自営業の生産性の伸びよりも大きいかのいずれかが起こっていることを示している。

 第7章の「90年代の両立支援施策は有配偶女性の就業を促進したか」は、結婚コホートごとに有配偶女性の就業継続と再就職を分析することによって、90年代に入り拡充された育児休業制度や保育施設の効果を検証する。分析の結果、たとえこれらの促進効果が存在したとしても、それ以上に経済停滞による抑制効果のほうが大きく、ネットの促進効果は確認できないことが指摘される。また学歴別に就業行動を比較してみると、継続就業率は高学歴女性のほうが高いが、一度離職し無業者になった女性の再就職率を比較すると教育による系統的な違いは見られなかった。

 第8章「恒久的減税と一時的減税の消費支出拡大に与える影響は異なるか」は、所得税の定率減税や消費税の引上げの消費支出に与える影響について検討する。恒常所得仮説によると、所得増加は恒常的に起こってはじめて消費拡大効果を持つのであって、一時的な所得増加はその効果を持たないはずである。はたしてそのような仮説が成り立っているかどうかを、KHPSを用いて検証した。全体のサンプルについて推定した結果では、恒常所得仮説が成立していることが支持されたが、サンプルを正社員世帯主サンプルに限定して推計してみると、一時的所得増加も消費支出を拡大する効果が見出され、一時的減税も景気刺激効果を持つことが示唆された。

 第9章「たばこ税の引上げや健康増進法は禁煙にどこまで有効か」は、KHPSの回顧データを使ってハザード分析を行い、これらの政策効果を検証する。分析の結果では、たばこ税の引上げによるたばこ価格の上昇は喫煙者の禁煙を促進する効果を持つことが確認された一方、健康増進法による分煙政策の効果は確認されなかった。今後、喫煙による負の外部効果を解消するには、たばこ税の引上げとともに分煙政策の強化が必要であることを述べる。

 第10章「家電リサイクル法は消費者行動にどのような影響を与えたか」は、施行後約4年が経過し、制度として社会に定着しつつある家電リサイクルシステムの実態をKHPSに基づき把握し、「処分時にリサイクルコストを負担しなければならない」といった制約が消費者行動に与えた影響について検討する。分析の結果、個々の消費者の家電利用期間を短縮し、それに伴う買替え需要を増加させていることが確認できた。また家電リサイクル法の導入は、リサイクルのみならずリユースをも促進させ、中古市場における使用済み家電の流通を活発化させている効果があることも明らかにされる。

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