父 小泉信三を語る
父 小泉信三を語る 編者によるウェブ版あとがき

『父小泉信三を語る』は、元慶應義塾長であり教育家であった小泉信三の二女、小泉妙氏へのインタビューを元に再構成した聞き書きとなっています。

編者3名(山内慶太・神吉創二・都倉武之)によるインタビューは、一回約2時間程度、計26回を数え、前半13回は妙氏ご自身のライフヒストリーを語っていただき、後半13回は、小泉家の膨大な家族アルバムの一部を見ながらのお話となりました。

ここでは、ようやくインタビュー・編集作業を終えた編者二人が、本書刊行までの2年間を振り返り、小泉信三という人物に改めて迫ります。

   


 

インタビューを終えて

神吉創二

2006年3月に「父小泉信三を語る」のインタビューが始まってから、小泉妙さんとお会いした回数は延べ26回、実に丸2年間かけての作業でした。前半13回は妙さんにお話ししていただき、後半の13回は小泉家の数え切れないほどのアルバムを一緒に見ながらのお話しでした。

この2年間を振り返って、今こうして『父小泉信三を語る』が愈々発刊となるにあたって、万感胸に迫る感激があります。それは、この2年間に妙さんと非常に密度の濃い尊い時間を共有できたことの喜びでもあります。妙さんとの時間は、尊敬し敬愛する小泉信三先生のことを学ぶ格好の教室でもありました。先生のことを学べば学ぶほど、そこで知った多くの発見と喜びから、自分の中の小泉信三先生が段々と近しく感じられるように変わっていったように思います。


私は小泉先生の亡くなられた後に生まれた世代です。先生のお顔も声も偉業も何も知りませんでした。ただ学生時代に体育会庭球部に在籍していましたから、歴々の先輩方がよく口にする庭球部長としての先生のこと、日吉蝮谷テニスコート脇にある「練習は不可能を可能にす」の記念碑、部室玄関に掲げられている先生の筆「庭球部」という表札などから、訳も分からないままに小泉先生をお慕いしていたところはあったかもしれません。

小泉信三先生は、私の曽祖父神吉英三の普通部での1級先輩でした。三田山上の寄宿舎に入った英三は、三田に住む小泉先生と山の上で共によく遊び「信ちゃん」と呼ぶ親しい仲でした。小泉先生はテニス、英三は野球に明け暮れたため、二人共日本作文が不可で進級せず再試験を受け、「小泉さんは95点。私より出来るんだなアと羨んだ。」と記憶していると、また「尊敬もし誇りとしてた巨星墜つ。慶應としては勿論だが国家の大損失、ああゝ、冥福を祈る。」と曽祖父は『小泉信三先生追悼録』に書いています。先生と曽祖父が一緒に並んでいる写真を目にした時、自分と繋がっている点が此処にもあったのかと感激しました。私の祖父神吉貞一も又、先生に繋がっていたことを『泉<季刊>』から知りました。祖父は仙波均平先生の教え子として、30年振りの仙波均平個展の推薦文を小泉先生にいただきに行っています。その折あつかましくも推薦文だけでなく、先生が連載中であった『新文明』に仙波先生について書いてほしいとお願いしました。「仙波さんをパブリシティにしたいようだが、それは仙波さんが望まれないことだよ」と先生に断られますが、「流石に友を知る言と感服した」と祖父は書いています。偉大なる小泉先生が、私の曽祖父・祖父と交わりがあった事実が、私にとってはとても誇らしいことでした。


不思議なことに、遠い存在であった小泉先生の人生に触れるこの2年間のうちに、誠に僭越・失礼乍ら、先生の優しさと温かさを知るうちに、先生がまるで自分の父親であるかのように錯覚することがありました。小泉先生は私の曽祖父と同世代と考えると、妙さんは私にとっては祖母にあたる年代となりますが、先生を父とすると私と妙さんの関係はどうなってしまうのでしょうね。こんなことを書いては妙さんにも失礼に当たりますし、きっと「私の父よ。あなたの父じゃないわ。」と叱られてしまうかもしれません。しかし、私の心中にはそんな思いがあったことは真実です。

小泉邸にて小泉妙氏を囲む筆者

小泉先生を知る機会になったことは事実ですが、本当のことを言うと私にとって同様に嬉しかったことは、それは小泉妙さんという女性を知る機会になったということです。

妙さんは本当におしゃれで素敵な女性であり、お邪魔する小泉宅はいつもきれいで、若い私共に対しても細やかな心配りをいただき、そしてお話の内容・知識や話題が実に豊富で、且つあまりに正確な記憶であるのにいつも驚いていました。古いアルバムにある小泉先生の写真を見るだけで、これは昭和何年の何処での写真で、一緒に写っている方は何々さんでどういった方で・・・という具合でした。これは非常に感嘆感服することでした。自分に同じ様なことができるかといったら、父の若い頃の写真を見てもそれがどんな写真なのかはなかなか詳しく解説できないものです。小泉家も阿部家も大家族ですから沢山の親戚がいらっしゃいます。伯父伯母、叔父叔母、いとこ、甥姪、夥しい一族の経歴や出来事思い出を詳らかに語る妙さんのはっきりした口調に、本当にいつも口をぽかんを開けて驚嘆の眼差しでうっとりと妙さんを眺めていた次第です。

2年間のインタビュー期間に、忘れられないエピソードがあります。それは、妙さんのご主人である小泉準藏さんが2006年11月25日に入院先の慶應義塾大学病院で87歳で亡くなられたことでした。

小泉(阿部)準藏さんが小泉家の婿養子として妙さんとご結婚なさったのは1949(昭和24)年のことです。準藏さんの父・阿部泰二の妹阿部とみは小泉信三先生に嫁いでいます。つまり準藏さんにとっての小泉先生は、義父であり叔父でもありました。準藏さんと妙さんが幼少の頃から食べてきた阿部家のお雑煮が同じだったから、結婚してもお雑煮の味で喧嘩がおきなくて良かったわ、と妙さんがおっしゃっていたのが印象的でした。

このインタビューの折、表参道のご自宅で準藏さんにお会いしたのは亡くなられる数ヶ月前のことでした。その時約束の時間より多少早めに着いてしまい、準藏さんはインタビュー場所である居間のソファーにいらっしゃいました。かなり体が弱られていたようでしたが、杖をつき妙さんの補助でゆっくりと居間から寝室に戻られる際、私共の方を向いて、「いつも父のことを色々と有難う。ご苦労様」と確りと大きな声で労ってくださいました。それが準藏さんとの最初で最後の会話となりました。2006年に入ってから体調が優れず、慶應病院で長い入院生活を送られてきた間、幾度も危険な状態があったようですが、朝から晩まで許される面会時間の全てを必ず付き添われた妙さんのお力で、最期まで夫婦仲良く話されたといいます。亡くなられる数日前に、準藏さんは妙さんに「失望しなければ、道はひらけるよね」と言いました。そして息を引き取られる前日には、「絶望しないでね」と言いました。それを聞いた妙さんは、「私は絶望しないわ。だからあなたも絶望しないでね。」と返されました。信仰を持つお二人の強い愛情と絆です。これは小泉先生の時と同じ聖アンデレ教会で行なわれた準藏さんの告別式における牧師さんのお話です。

小泉準蔵氏遺影

妙さんは本当に強いお方です。そんな大変な闘病生活を支えていらっしゃる合間に、いつも笑顔でインタビューに答えてくださっていたのです。インタビューの場所はこの入院期間は慶應病院のとある一室で行なわれていました。お疲れも可也のものであろうと妙さんの体調を案じてはいましたが、妙さんはそんな様子を一切見せずに、逆に私共に対して「ご苦労様」といつも労われました。2006年の暑い夏のことです。


この2年間、色々な出来事があったものだと改めて今思います。妙さんとの時間は、私にとってかけがえの無い時間になりました。この『父小泉信三を語る』には、様々な思いが凝縮されています。この一冊は、私にとって偉大なる先人小泉信三先生が、今初めて私の心に生き始めた記念すべき本になると確信しています。

著者プロフィール:神吉創二
慶應義塾幼稚舎教諭。庭球三田会常任幹事。昭和45年生まれ。平成4年、慶應義塾法学部法律学科卒業。在学時は慶應義塾体育会庭球部主務。庭球部創立百年記念誌『慶應庭球100年』の編集に携わる。
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