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「福翁自傳」の研究

[註釈編] はじめに
 
 
 福澤諭吉は、思想家として、教育者として多くの著作を残している。中でも「福翁自伝」は、最も読者の多い作品だろう。現代にも大きな影響を与えている福澤を研究する上で重要な史料と位置づけることができるだろう。

 一般的に、「福翁自伝」はわが国の自伝文学の最高傑作として、国内はもちろん海外での評価が高い作品とされている。当時としては珍しい口述筆記に加筆補訂して明治三十一〜三十二年『時事新報』紙上に掲載され明治三十二年(一八九九)刊行された。その軽妙洒脱な文体は現在でも読む者を魅了する。

「自伝」の内容の大半は維新までの前半生にあてられ、後半生は「老余の半生」の一節に描かれているのみである。少年時代、長崎修業時代、緒方洪庵塾時代、三度の洋行、維新時代等について、平易な談話体で詳細に表現されているため、福澤の前半生を研究する上で初学者にとっても重要であるが、関係資料に乏しく研究者にとってはかなり難題が多い文献である。一方、明治以降の福澤の大略に関しては『福澤全集緒言』(明治三十年刊)に多く示されており、急速な文明開化のもと言論出版活動が盛んになった時期でもあったので資料的にも豊富で詳細な、研究も多く行われている。

 「自伝」を研究することは、特に福澤の前半生を探る作業であるため、多くの先輩の手によって時間をかけ行われてきた。私がこの「自伝」研究に関わり、ここまで研究を継続できたのも、とりわけ富田正文先生の研究があり、またそのご指導により福澤研究の道を開いていただいたからに他ならない。

 本書の執筆のきっかけとなった経緯は、慶應義塾創立一〇〇周年に際しての、『慶應義塾百年史』編纂に当たり、『百年史』の関係者が改めて「自伝」を検討した際に、幾つかの大きな疑問が出てきた。「自伝」に関する疑問は、全て出尽くした感もあったが、中津藩関係の記述に関する傍証資料が極めて少なく、また福澤の意図的とも思える記述不足の点が挙げられるなど、なお解決がつかない点がある。この積み残しともいえる疑問点を継続して研究するために、メンバーのひとり中山一義教授の提案により、さらに時間をかけて幕末期の疑問点を解き明かして行くために、広い視野で記録や疑問を自由に話し合える懇話会「自伝を読む会」を創立しようとの提案があった。富田正文先生の快諾をもいただき、両先生のご指導のもと、会を重ねた。新資料の発見は早々無く、時間を要し、少しずつ成果が見えてきたが、富田、中山両先生の他界により前途が危ぶまれた時期もあった。勿論早急に成果が得られるものではなかったが、その後も会員の努力と意欲でわずかながらも新しい資料を見出すことで、研究を進めることができた。

 今回ここに上程した内容は、その研究成果の一部を発表することになったもので、おふたりには感謝の念を表したい。

 本書の構成は、「福翁自伝」に出てくる文言に関する事項は「註釈」(本文)にまとめた。たとえば、幕末の十年間(いわゆる無名塾時代)に行われた義塾の所在地移転の背景や理由、学塾改正の意図等は、おぼろげながら推測できる段階に研究が進み、まとめることができた。

 また、「自伝」を別の視点からも考察できるよう、関連項目の解説、私の推論等を各章末に「参考」として付記した。

 本註釈を作成するにあたり最も大きな疑問として浮かんできたのは、一般的に塾関係者を含め「慶應義塾」の名前に関して、「義塾」には関心が集まったが、「(時代としての)慶応」にはほとんど言及されていない点である。また、慶應義塾が創設を一八五八年(安政五年)としている点である。「慶応」以前には無名塾の時期があり、福澤がなぜ幕末ギリギリの年代を採り「慶應義塾」と命名したのか。単純に当時の年号を使ったというだけでは片付けられないことが、当時の時代背景、福澤の立場や言動から見えてきた。この点についても、「註釈」(本文)と「参考」でかなり詳しく言及した。

 本書では、明快に論陣をはる人物であるにも関わらず、福澤が「自伝」の中で、出来事の事由や意図にあえて触れなかった点にも、注目してほしいと考え、一部解釈を加えた。たとえば、文久三年九月末頃に行われた鉄砲洲中屋敷の平屋建て五軒続きの長屋に移転した事由は、「自伝」ではまったく触れられていない。では、なぜ触れなかったのか。ここから疑問が生まれ、新しい資料探しが始まった。このように語られない箇所の発見から新しい研究のヒントが生まれると思われる。まだまだ、「自伝」の中には「語られない部分」がある。ぜひ今後の研究テーマとして掘り下げてほしい。

 また、この「註釈」と「参考」も合わせて利用していただければ、「自伝」の読み方のヒントとなるだろう。福澤は、口述筆記に後で入念に手を入れている。その点で本書別冊・本文編の佐志傳君の研究は、大変な労作であり、さらに自伝研究を深める重要な資料となるだろう。

 多くの分野で現代に活きる福澤の思想背景を理解する上で、「福翁自伝」を研究することの意義は、今後も重要である点を最後に、重ねて強調しておきたい。


 

 
編著者プロフィール:河北展生(かわきた のぶお)
大正10年生まれ。昭和18年9月慶應義塾大学文学部卒業。同年10月慶應義塾大学文学部助手。昭和39年4月慶應義塾大学文学部教授。昭和45年4月慶應義塾大学大学院文学研究科委員兼任。昭和61年4月慶應義塾福澤研究センター所長兼任。昭和62年3月慶應義塾大学定年退職。同年4月慶應義塾大学名誉教授、福澤研究センター顧問。

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