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西脇順三郎コレクション

ウェブでしか読めない 西脇順三郎

回想の西脇順三郎

小 伝

 

鍵谷 幸信
 
 

西脇順三郎は1894年1月20日、新潟県小千谷に生れた。西脇家は代々縮問屋を営み、父寛蔵は小千谷銀行当主。順三郎は小学生時代内気な性格で、女の子と遊んでばかりいた。図画が得意で後年の画才がすでに芽生えている。1906年小千谷中学入学。英語に異常な興味をもち、『ナショナル・リーダー』を丸暗記したほどである。綽名は英語屋。同時に絵画をよくし、教師が画才を認め画家になることを薦めた。同級の文学青年が藤村、花袋、独歩などを愛好したのと異なり、漢詩を愛読。少年期から独創的な精神と鋭敏な感性は発揮され、将来の詩人、画人の誕生が垣い間みれるのである。


1911年中学卒業。画家を志し上京。藤島武二を訪問、内弟子となった。白馬会に入会。ただ当時の画学生の生活、気質に馴染めず、パリ行きを希望したが父の死にあい断念。将来の進路に迷って煩悶し、すべての実業に対して嫌悪感をもった。人間が職業をもつということを思っただけで、憂鬱になったと後年述懐している。だが家人に説得され1912年慶應義塾大学に入学、ヘンリー・スウィートの文法書やアーヴイングの『スケッチ・ブック』などを読む。同時にギリシャ、ラテン、ドイツ語を学ぶ。1914年文学部志望を断念、不本意ながら理財科(現経済学部)へ進み、小泉信三、高橋誠一郎教授の教えを受けた。同級に野坂参三がおり、彼と共に『資本論』を読む。だが経済学への関心は湧かず、講義中もトルストイ、ツルゲネフなど文学書を読んでいた。当時早稲田に遠縁にあたる鷲尾雨工(直木賞作家)がいてしきりに交友、彼を通してボードレールを知り感嘆した。またヴェルレーヌ、ランボー、フローベール、モーパッサン、シェイクスピア、ペイター、シモンズ、ワイルド、イェーツ、ドストエフスキー、ニーチェを耽読、とくにペイターの『ルネサンス』は生涯の愛読書だった。キーツの繊細美に心惹かれたが、あまりの犀利な感覚に読んでいると肺病になるような気がしたと回想している。バイロン、シェリーの感傷性に反撥したのも彼らしい。1917年卒業論文「純粋経済学」を全文ラテン語で書き、小泉教授に提出、その語学力は周囲の人びとを驚かせた。卒業と同時にジャパン・タイムズ社に入社、英文記事を執筆、ジャーナリストとして実社会へ出たが、結核に罹り退社。帰郷しペイター全集を読了、文芸批評の醍醐味を知った。1919年再上京し、外務省条約局の嘱託となった。


 

1920年慶應義塾大学予科教員に推され、この頃から文章を執筆、平田禿木の『英語文学』に寄稿。水上滝太郎にも認められ『三田文学』に執筆するようになる。また野口米次郎、戸川秋骨、馬場孤蝶、竹友藻風を知る。上田敏の『海潮音』の雅文調、美文体に激しく反撥、順三郎の母国語による詩作は遅れ、英語、フランス語によって果されるという珍しいケースを生んだ。ただこの年萩原朔太郎の『月に吠える』を読み大きな衝撃を受け、日本語による詩作の自信をもったことは特筆すべきだろう。「萩原朔太郎という詩人は私にとって一つの光明であった。その内容(主としてその詩的情緒)もその言葉のスタイルも全面的に私をよろこばせた」と書いている。順三郎の萩原体験は、それまでの日本詩の拒否反応をいっきょに解消し、新しい詩的言語の開花と詩想の展開を促したことは決定的な意味をもつ。わが国の詩史において順三郎が朔太郎に出会ったことは、近代詩、現代詩の燦然たる系譜の1ページである。『月に吠える』とAmbarvalia(1933)とは、大正、昭和期をそれぞれ代表する傑出した詩的成果であったことは多言を要しない。


 

1922年慶應義塾留学生となって英語英文学、文芸批評、言語学研究のため渡英する。渡英の際『悪の華』『ツァラツストラはかく語りき』『月に吠える』をお守りとしてもっていった。オックスフォード大学入学を希望したが、新学期に遅れ1年間ロンドンに滞在。もっぱら当地の文学青年、作家、詩人、画家、ジャーナリストと交友。ジョン・コリアー、シェラード・ヴァインズ、ジョン・J・アダムズを知り、とくにコリアーとは親しくつき合った。順三郎はそれまでに書いた英詩のソネットを彼らに見せたところ、古臭いと一蹴され、原稿を全部テムズ川に投げ捨てたという。


 

1922年に順三郎がロンドンにいたということは、きわめて重大で意義のあることだった。つまりジョイスの『ユリシーズ』、エリオットの『荒地』が刊行され、大陸からは未来派、表現派、立体派、構成主義、ダダ、シュルレアリスム、抽象派、がどっと英国にも流れこみ、モダ二ズムが一斉に開花した時期であったからである。順三郎はここでモダニズムのしぶきを全身に浴びる。ロイヤル・アカデミーを軽蔑し、ピカソやニグロ彫刻を礼賛する。ディアギレフのロシア・バレエを見、ストラヴィンスキーの音楽を聴く。ソホー街のイタリー料理店やランベスの場末の屋根裏で文学談、芸術論を連日のようにやって過した日々。コリアーは順三郎がオックスフォードなどという錆ついたアカデミーに入るのはやめろと反対したが、翌年10月ニュー・カレッジに入学、古代中世英文学を本格的に学ぶことになる。ただ順三郎がこの1年、大学という閉鎖性の強いところではなく、自由な生活を送り、20世紀文学や芸術の空気を思いきり吸い、文人、芸術家と交友したことは、将来彼にとって計り知れない創造的な精神の土壌を提供したのだった。事実、彼の発露は1924年ハロルド・マンロー編集の『チャップブック』39号に、英詩 ‘A Kensington Idyll’ を発表し、25年に英文詩集 Spectrum を刊行したことでその成果は著しい。24年にはマチスばりの美しい色彩感覚をもった英国女性マージョリー・ビットルと結婚する。彼女はのちに二科会友になった人である。滞英中、柳田国男と知り合ったことも、民俗学に対する順三郎の目を開いたことで見逃せない。だから順三郎の英国生活がいわゆる月並みな留学ではなくて、この詩人、学者のその後のありように大きな影響をもたらしたのであった。つまり彼はアクチュアルな文学的、芸術的な原体験をしたということなのである。単なる後退的なアカデミックな研究といったものでなかったことが、この稀代の創造家の精神と感性を大きく揺さぶり、革新したのである。


 

1925年11月帰国、26年慶應文学部教授となり、古代中世英語英文学、英文学史、言語学概論を講義する。当時文科生だった上田敏雄、瀧口修造、佐藤朔、上田保、三浦孝之助らと知り合い、師弟関係というよりは詩的交友と呼ぶのがふさわしい状況が生れる。ここから順三郎を中心とした新しい文学活動が展開していった。彼自身も『三田文学』に詩と詩論を発表、その斬新な詩風と論調は多くの人びとにショックを与えた。とくに瀧口修造とのあいだに密接な係りが生じ、2人の優れた詩人の伸長に貴重な交感を生んだ。27年わが国最初のシュルレアリスムのアンソロジー『馥郁タル火夫ヨ』を刊行。28年には『詩と詩論』が創刊され、順三郎は毎号実作と詩論を発表、この新詩運動の中心的存在、精神的支柱となった。


 

1929年には日本英文学会第1回大会で ‘English Classicism’ と題して英語で講演し、英文学者としても颯爽と登場する。この頃旺盛活撥に執筆し『超現実主義詩論』(29)、『シュルレアリスム文学論』(30)、『ヨーロッパ文学』(33)、『輪のある世界』(33)、『現代英吉利文学』(34)などを刊行、Ambarvalia で詩人として名声を得る一方、チョーサー、シェイクスピア、キーツからジョイス、パウンド、ヒューム、エリオット、ウィングム・ルイスなど、英文学全体を巨視的視座で捉え、しかも詩人の直観的ヒラメキを自在に働かせて裁断する新鮮な批評を打ち立てた。順三郎の英文学に対する姿勢は、括孤つきの英文学者の範躊をいつも越えており、つねに詩人のエスプリが原点で作動していて、意想は奔放自在にかけめぐり、実証的、系統的考察を加えるよりは、この人固有の小気味よい創見と独断で英文学総体を鳥瞰し、ユニークで何人も及ばないエッセンスを汲みとったことは、ジョイス論や後年(1956)の『T・S・エリオット』を読んだだけで瞭然とする。それとボードレール、ランボー、マラルメ、ヴァレリー、ブルトンなどのフランス詩人に対して並々ならぬ卓説を唱えるのも壮観だ。といっても当今はやりの比較文学の方法論の適用ではなく、チョーサーの脇にエリオットを置き、時空を越えてこの人の巨大な脳髄のなかを一瞬のうちにかけめぐり、その詩情の精髄を捉える知性と感性のアンテナの鋭さは無類である。


 

だからこの詩人の内面では、李白も陶淵明も芭蕉もシェイクスピアもマラルメもイェーツも、同一次元に誘引され、融通無礙に論じ究められている、という愉しい大らかさがある。それは狭苦しい学問的組織や規制や論理を形成する前に、この人の詩情の眩ゆい光線を浴びてわれわれの前に提示してくれるのだった。その端的な表われが博士論文となった『古代文学序説』(1948)であり、これは学問をポエジーのヴィジョンにくるみこんだ、もうひとつの詩集とさえいっていいのではないか。福原麟太郎がいみじくもいったように、こうした本を書ける人は西脇をおいてほかにありえない。


 

英文学は西脇順三郎にとってヨーロッパ文学のごく一部にすぎなかった。その英文学、英文学者は詩人というより茫洋たる存在のなかに吸引されてしまうのである。また彼を学匠詩人などと呼ぶことがいかに的外れで浅見でしかないことか。古今東西の該博な学識、教養の持主ではあったが、詩人の前で英文学者西脇順三郎は、遥かなる風景の彼方へとしばし遠ざかる。


(英文学者、詩人、音楽評論家)

*本エッセイは、安東伸介ほか編『回想の西脇順三郎』慶應義塾三田文学ライブラリー、1984年より転載した。転載にあたっては、著作権継承者の了解を得た。

*読みやすさを考慮して、本来の漢数字表記を算用数字に改めた。


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