本が読まれなくなったというので、文化の危機のように考える人がふえ、文字・活字文化振興法ができるまでになった。すこし心配がすぎるのではないかという気もする。たしかに若い人たちの本離れは進んでいるようだが、全体としてみればかなりよく読まれているともいえるのである。
戦前に比べたらいまの読書人口はケタ違いにふえているはずである。かつては、本らしいものがまったくない家庭が少なくなかった。図書館など県にひとつか二つである。本を読む大人は普通ではなかった。そういう中で若い人たちは難しい本や論文を読んだが、読書がステイタス・シンボルだったのである。文学青年、哲学青年を気取ったが、世間はそれに同じなかったようである。
どうも日本の読書文化は根が浅いように思われる。本当の読者というものを育てる機関もなかった。学校は“よみ・かき”の読み方を教授するにとどまり、初歩的な読字こそ教えたけれども、深い読解ということがあることも知らずに国語教育を行ってきた。大多数のものが読み方を知らないで一生をすごした。これは、本を読まなくなったというよりはるかに深刻な問題である。しかしこれまで一度としてそれが真剣に考えられることがなかった。不思議である。
ものを読むことを考える前に、ことばを反省することもなかった。外国語には目の色を変えるのに、母国語について学ぶことがはなはだ少ない。
ことばが音声言語と文字言語に分かれるということは知っていても、話すことばのほうが基本的であることはご存知ない知識人が少なくない。話しことばより文字、文章のほうが高尚であるように誤解している人がほとんどである。
日本語はいまは外国語にならって言文一致のように考えられているが、これも不正確な認識である。日本語はいまだ言文二途の伝統が生きている。話すことばと文章のことばは異なった体系をとっているから、読むのに、欧米の人の経験する以上の困難を余儀なくさせられる。読めるようになるには、特別な訓練が必要になるのだが、ここ百年の国語教育はその難題をさけて、文学読者を育ててきた。新聞でも小説は読めるが、社説は読めない読者である。
もちろん文学作品を読むことも大切な能力であるが、ことばは文芸のためだけにあるのではない。本当の読書能力はことばで表現されたすべてのものを理解するものであるべきで、その点、現在においても、本当にものの読める人は意外に少ないと想像される。
わかり切ったこと、身に覚えのあること、つまり既知をあらわす文章しか読めないのは“半読者”である。本当の読者は、未知を読む。未知はわからない塊のようなものだから、いくら考えても不明なところは消えない。それにもかかわらず理解するには、想像力と洞察力が必要になる。少なくとも重要な文章は一度だけでなく、繰り返し読むべきだと考えるのが、一人前の読者である。価値ある読書はそういう読者によってのみ可能である。
問題はそういう読み方を教えてくれるところがないこと。いまの学校にそれを求めることは非現実的である。近年充実めざましい図書館の出番かもしれない。
ただ本が読まれなくなってもそれほど気にすることはない。
|