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編集後記  第55巻9号 2007年9月
 

▼文部科学省は、平成14年に「脳科学と教育」研究に関する検討会を組織し、翌年の報告書において、「脳科学と教育」研究による取り組みが期待される課題を年齢別に列挙した。そのなかで、学童期(6歳〜15歳)においては、とくに、いじめや反社会的行動、非行、暴力、極端な自己中心的行動等を取り上げている。これらの課題は、いわゆる「キレる子ども」の行動と関連するもので、「キレやすく」なっている現代の子どもたちの闇の部分に、いよいよ脳科学研究の光を当てようとする試みが注目された。しかしながら、脳科学の知見をどう教育に反映するかをめぐっては、専門家の間でも意見が分かれている。
▼例えば、脳の発達段階においては、「臨界期」と呼ばれる、生後、ある一定の時期までに、しかるべきことがらを学習することが重要と考えられている。とくに、幼弱期における母子の相互関係が子の情緒の発達に大きな影響を与える可能性が、動物実験の結果から示唆されている。では、こうしたデータに基づいて、「子どもの情緒の健やかな発達には乳幼児期の母子の密着が大切で、子どもが5歳くらいまで母親は子育てに専念すべきである、そうしないと取り返しのつかないことになる」と結論づけてよいのかというと、ことはそう単純化できない。ヒトの発達は実験動物の場合よりもはるかに複雑で、発育の段階では、より広い周辺環境や社会文化の影響を大きく受けるからである。結局のところ、現在の時点では、教育の在り方を左右するほどの脳科学研究の知見が蓄積されているとはいいがたい。したがって、平成17年6月に発表された教育再生会議二次報告が言及する子育て支援への科学的知見の応用に対しては、批判も少なくない。
▼養育や学校教育に関連する脳科学研究は、1990年代初頭に米国で始まったものであり、我が国の研究者も、それに習おうとしている。同時に米国では、多様なエスニック社会であることを反映して、異なる民族、地域、家庭環境が子どもの発達に与える影響に関する研究も盛んである。それらの研究の成果によれば、社会文化的な環境要因が発達途上にある子どもの特定の問題行動を誘発し、また、ある場合には改善することが明らかになっている。つまり、「キレる子ども」の背景には、「キレやすい」大人や家庭、さらには「キレやすい」社会、国家も関わっているかもしれないが、それらの関係はなお改善する余地も残されているということである。
▼「キレる子ども」の原因探しは、単に大人の「キレやすさ」を一時的になだめるに過ぎない。それよりも、「キレる」ことへの対策が重要であることはいうまでもない。対策を立てることは、気の長い根気のいる仕事なので、「キレやすい」大人は苦手である。戦争を始めるよりも、平和を維持することのほうが、はるかに骨の折れる仕事であるという。「キレる子ども」の対策も、それと似ているかもしれない。

(黒木俊秀)
 
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