戦後を代表する言論人であり、今上陛下の御教育掛であった小泉信三は、長谷川如是間や柳田國男から「当代の名文家」と称賛されたエッセイの書き手でした。現在では入手が困難となっている小泉の随筆を、歿後50年を記念して 「小泉信三エッセイ選1 善を行うに勇なれ」、 「小泉信三エッセイ選2 私と福澤諭吉」の2巻に編集し、刊行しました。
戦後を代表する言論人であり、今上陛下の御教育掛であった小泉信三は、長谷川如是間や柳田國男から「当代の名文家」と称賛されたエッセイの書き手でした。現在では入手が困難となっている小泉の随筆を、歿後50年を記念して 「小泉信三エッセイ選1 善を行うに勇なれ」、 「小泉信三エッセイ選2 私と福澤諭吉」の2巻に編集し、刊行しました。
「福澤先生のエライところはどこだったろう」と私はいった。「それは愛よ」(「姉弟」より)――
「2 私と福澤諭吉」は、幼少期に傍でみていた福澤諭吉を個人的に追憶する随筆から、歴史的資料を精読して研究者の視点で福澤を描いた小論まで、数々の福澤像を描いた文章をバランスよく編集。慶應義塾ひいては近代日本の一つの思想体系をあぶり出す。
〈主要収録エッセイ〉
姉弟/師弟―福澤諭吉と私の父―/つむじ曲りの説/ 抵抗の精神/福澤先生が今おられたら/佐藤春夫/父として の福澤先生/大隈重信と福澤諭吉/ 福澤諭吉と北里柴三郎/文字による戯画/ 福澤と唯物史観/帝室論/福澤研究の方向について
何事によらず他に逆らい、人が右といえば
今後、個人としても国民としても、明らかな認識、正しい洞察は何よりも大切であるが、それとともに、時としては曲るつむじも是非用意して置きたいものである。
明治時代のつむじ曲りを数えるとなれば、私は先ず福澤先生に指を屈する。先生を一個のつむじ曲りとのみ見ることは勿論当らないが、先生がよく人が左りに走るときに右を指さし、右に傾くときに左りに曳くということをしたのは間違いなき事実である。それは先覚者警世者として当然の用意でもあった。
先生はこの精神を称して或いは「抵抗の精神」といい「瘠我慢の主義」といい、また「曲を
先生はいう。およそわが思う所を行わんとする専制は人間の本性と称しても好いものである。これを防ぐの途はこれに抵抗するより外はない。「世界に専制の行はるゝ間は之に対するに抵抗の精神を要す。」抵抗は文をもってするものがある。武をもってするものがある。或いは金をもってするものがある。西郷は即ち武力をもってしたものであって、その方法はわが思う所と異なるけれども「結局其精神に至つては間然すべきものなし」と。
先生は西洋文明導入の第一人者であったが、同時に反面において、この文明が無気力
有り来りの解釈によって先生を功利主義者、実用論者とのみ見ている批評家は、これを読んで意外に思うであろう。しかしこれが福澤先生の真面目であった。
しかし「文明の虚説に欺かれて」次第に抵抗の精神を失うことは何時の世においても戒めなければならぬところである。それは目前一日の安きをぬすむ心から発する。また義を見て敢えてすることを
何事によらず、他に逆らい、一々異説を唱えるつむじ曲りが互いに角目立つ世界も有り難くないが「目上の人に逢へば一言半句の理屈を述ること能はず、立てと云へば立ち、舞へといへば舞ふ」柔順なる人民ばかりでは国の前途は心細い。今にして先師福澤諭吉先生を憶う。
(『夕刊中外』昭和二十四年五月二日)
分野 | 人文書 | |
---|---|---|
初版年月日 | 2017/01/25 | |
本体価格 | 2,800円 | |
判型等 | 四六判/上製/304頁 | |
ISBN | 978-4-7664-2384-6 |