近代日本の中の交詢社  
 
       
         
   

第9回 交詢社設立の中心人物たち――小幡篤次郎

これまでは社則「緒言」と「交詢社設立之大意」の内容を紹介しつつ交詢社の設立意図を探ってきた。「維新の諸変革によって人々の独立の精神は成長したものの人々は藩という社会結合を失い、よるべない状態にさらされている。藩の代替物をつくらなければ、芽生えかけている人々の独立精神は孤立に変わってしまう」。福沢をはじめとする時代のリーダーたちのこうした危機感に基づいて交詢社は構想された。それは、福沢諭吉が注目し、手がけてきた結社(慶応義塾など)、すなわち当時世に盛んになってきた専門結社(商人会社、学校、病院など)とは異なるものであった。

上記の交詢社理解は社則「緒言」と「設立之大意」を手がかりにしたものである。特に「設立之大意」は福沢執筆と推察されるもので、そうであるならば、彼の意図が色濃く表れているといえよう。では、彼以外の設立者の主だった人々を併せてみてみると、交詢社はどのような像を結ぶだろうか。今回と次回では福沢のよき共同者であり、設立にあたっては中心的役割を果した小幡篤次郎をとりあげ、彼がどのように福沢と交詢社に至ったのかみてみたい。彼はどのような人物であったのか、その点からふりかえってみたい。

★交詢社幹事―小幡篤次郎

小幡の名は第6回をはじめ、たびたび登場したから、ご記憶の方もおられるだろう。交詢社を実質的に切り盛りしたのは彼であった。第4回、第5回で紹介した交詢社の初期構想期における福沢書簡をみても、小幡を中心に構想が進められたことがうかがえる。

交詢社発会式では彼が創立事務委員の代表として事務報告を行い、翌々日の第1回常議員会で福沢が常議員長に選ばれると、彼は幹事に小幡を指名した。以来、福沢が亡くなる明治34年まで長きにわたって彼は幹事を務めることになる。その間、交詢社の運営は彼を中心に行われ、毎年春に開催された大会では、司会および庶務会計報告は小幡自らが行った。前回ふれた鎌田栄吉は「交詢社は小幡さんが主任になってやっておられました」と回想している。小幡抜きに交詢社は語れないようである。

★生まれ

彼は1842年(天保13年)、中津藩士の家に生まれた。福沢と同郷で8歳年少である。福沢が自身の体験から身分制度について記した「旧藩情」によれば、幕末の中津藩には約1500人の藩士がおり、大きく上士と下士に分かれていた。人数の割合は3分の1が上士であったという。武士といっても両者にはずいぶんな違いがあったようで、上士は藩の要職への道が開かれ、生活に困ることがない。一方、下士は上士に平伏しなければならず、両者間の言葉づかいも異なる。彼らは経済的にも貧しい暮らしを強いられ、両身分間の婚姻も認められていなかった。

ところで、小幡の生まれた家は供番といい、他藩にいうところの馬廻格で郡奉行などの地位にも就くことのできる上士の家系であった。下士の家に生まれた福沢とは異なり、石高も200石(福沢の家は13石)と小幡は不自由のないめぐまれた家庭に生まれたといえる。

だが、ひとつ重要な点があった。彼が血筋上長男だったものの、家系上次男であった事実である。彼が生まれる前に実父が若くして隠居処分を受け、その時分に子がなかったために養子をとって小幡家を相続させていた。したがって、小幡は、その後の小幡家の血統上長男として生を受けながらも生家の跡を継ぐ資格はなく、他家の養子となるのでなければ部屋住み(次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者)をよぎなくされる身であった。この点、福沢同様に武士の制度に対して矛盾を感じざるをえない境遇にあったといえる。事実、彼が「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」(明治8年『民間雑誌』第十一編)という論説を発表し、兄弟姉妹間の均分相続を主張したことは、そのような境遇に由来しているだろう。

★福沢塾へ

小幡

元治元年(1864年)、福沢が自らの塾(慶応義塾以前の福沢塾)の人材発掘を兼ねて中津に帰省してきた。22歳の小幡は同郷の5人の青年(実弟甚三郎も含む)と共に福沢塾での洋学修行に勧誘され、江戸へ出ることになる。当時の福沢塾は幕末の世相を反映して、政情視察に奔走する塾生もいるなど乱雑な雰囲気があったというが、小幡が入塾すると、彼の生来の穏やかで重厚な人柄が塾の空気を落ち着かせたという。勉学においても、一からの洋学修行だったにもかかわらず、すぐに頭角を現した。入塾2年後には塾頭になり、弟甚三郎と共に幕府開成所の助教にも任ぜられ、慶応4年(1868年)には我国初の『英文熟語集』を出版した。慶応義塾創業の宣言書「慶応義塾之記」は、文案小幡、福沢加筆といわれる(『慶応義塾五十年史』および『慶応義塾百年史』)ように、慶応義塾における小幡の存在は学問、実務の両面において福沢のよき共同者というべき存在となっていった。

同時代の人々の記録でも、福沢と小幡とが強い信頼関係にあったことが証言されている。明治時代に人物評論で名をはせた鳥谷部春汀は、福沢が小幡に門下生としてではなく友人として接し、2人は異体同心の関係であったことを述べている。才気煥発の福沢と温厚篤実の小幡の2人のコンビネーションが草創期の慶應義塾を創り出したといえる。福沢と共に啓蒙書を世に送り出した小幡は、同時代においては一級の知識人として広く知られた存在であった。例えば明治初年についての田中正造の回想の中でも「尺(尺振八―筆者注)、中村(中村正直)、福沢、小幡等の翻訳書大に世に行はれんとす」と記されている。尺振八と中村正直は共に慶應義塾と並ぶ私塾、共立学舎、同人社を開いた人物で、中村の『西国立志編』は福沢『西洋事情』、内田正雄『與地史略』と並んで明治の3大ベストセラーである。小幡はそのような人物たちと並び称された時代を代表する知識人であった。

★明治会堂での交詢社第一紀年会演説―結合、結社、政党

小幡が草創期の交詢社をどのように考えていたのかを知る手がかりとなるものに、「交詢社第一紀年会報告」と題された演説がある(『交詢雑誌』37号)。設立1周年を祝って明治14年1月25日に開催された集会で、庶務会計報告と共に彼が期待する交詢社像に言及しているのは一考の価値があるだろう。以下にその内容を簡潔に紹介しよう。

小幡

冒頭、小幡は社員数の微減に触れ、付和雷同して入社した人々が去ったためと説明した後、核心の部分に入る。現在の我国で「結社協同」という行為の難しさをのべ、その理由を「結合」の歴史的なあり方に基づいて説明しようとする。大昔の時代、結合の度合いが最も強固だったのは種族、宗教、将卒の結合であった。これらの結合は現在に至るまでに大きく減少し、文明諸国ではわずかに存在するのみであるが、なかでも中世以後で、最も団結力のあるものは政党であるという。政党は1国の文明が進むに応じて勢力を増し、国民を挙げて甲党乙党のいずれかに属さなければ世に立つことができないというように、つまり「政党外に人なし」というほどの「大団結大勢力」に成長したものである。その結果、人間万事皆結社をお¬こさなければ勢力の乏しさを覚え、習い性となって、大は政党より、小は民間の些細なことに至るまで皆団結協同するようになっている。

これに対して、我国には「結社の本源である政党」はなく、種族・宗教・将卒の結合は衰えているから、結社協同のためには最も障害の多い時代といわざるをえない。このような時代にあって交詢社の結合の隆盛具合をみると、我国の文明も政党を出す日も遠くはないだろう。政党ができて結社の習慣が世におきれば、交詢社もいよいよ盛んになるに違いない。

上記の演説の主張から分かることは、小幡の基本課題であり、キーワードが「結合」であること、その実現手段として「結社協同」が考えられていることである。さらに、結社観の基礎が「結社の本源である政党」にあるとされている。この捉え方が何に由来するものかについて小幡は語っていない。しかし、それを解く手がかりの1つは、彼が持続的に関心をもち続けたフランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィル(1805-59年)の名著『アメリカのデモクラシー』に求めることができそうである。それについては次回に。

【出典】

・交詢社と小幡についての鎌田栄吉の回想については

 

『鎌田栄吉全集』第1巻、199頁

「旧藩情」は『福沢諭吉全集』、第7巻所収

・小幡「嫡子に限り家督相続を為すの幣を論ず」は改版『明治文化全集』第5巻(明治文
  化研究会、日本評論新社、1969年)所収
・小幡についての鳥谷部春汀の人物評論については
  「物故の三名士」『春汀全集』(博文館、1909年)第3巻所収
・田中正造の回想については
  「田中正造昔話」『田中正造全集』(岩波書店、1977年)、第1巻、89頁
   
   
 
 
 
   
       
      Copyright © 2005-2007 Keio University Press Inc. All rights reserved.