近代日本の中の交詢社  
 
         
   

第3回 自発的結社の原点―その(2)

★慶応義塾の創業へ

前回では、福沢諭吉の渡欧経験をとりあげた。イギリスにおいて政府以外の自発的結社(学校、病院など)が種々の公共機能を果たしている様子に彼は強い印象を受けた。それは『西洋事情初編』となって世に伝えられた。日本の歴史にも学塾・文人結社・講など、今日からみて自発的結社といえるものは既にあった。だが、その働きを明確に自覚した点に福沢の新しさがあったといえる。この認識が後年の交詢社設立につながってゆくことになるのだが、それ以前に慶応義塾として実践が始められていた。彼の渡欧から6年後、『西洋事情初編』刊行から2年後のことである。

慶応義塾が創業されたとき、自発的結社の自覚はどのように示されていたのだろうか。また、どのような状況の中から慶応義塾は生まれてきたのだろうか。今回からは創業と同時に刊行された『芝新銭座慶応義塾之記』を中心にとりあげてみたい。

★「慶応義塾之記」―慶応4年(1868)

※画像1がここに入ります。※

安政5年(1858)、中津藩の命により、福沢は江戸築地鉄砲洲の藩邸内で蘭学塾を始めた。慶応義塾の起源である。当時、名前はない。10年後の慶応4年、芝新銭座に移転し、時の年号にちなんで「慶応義塾」と名のった。「慶応義塾之記」という宣言書を掲げての新たな船出であった。

この宣言書は『芝新銭座慶応義塾之記』と題され、創業と同時に出版された。構成は「慶応義塾之記」「規則」「食堂規則」「入社規則」「日課」「塾平面図」、宴席での祝文「中元祝酒之記」というもの。『慶応義塾百年史』の記載で8ページと分量は簡潔ながら、内容は濃い。それは以下の文章で始まる。

「今ここに会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや事本と(もと)私に非ず。広くこれを世に公にし、士民を問わず苟(いやしく)も志あるものをして来学せしめんを欲するなり」

 

ここでの「私」と「公」の使われ方をみると3点の特徴があるようだ。@同志による共同体、「会社」の公共的機能の認識、A洋学という学問に従事することが単なる私事ではないという主張、B入社資格が身分ではなく「志」の有無にある、という3点である。順を追ってみてみたい。

★「慶応義塾之記」―「今ここに会社を立て…」

※画像2がここにはいります。

前回述べたように、この「会社」という言葉は今日の我々が思い浮かべる企業の意味ではなく、自発的集団を指している。この言葉は、江戸時代に生まれた和製漢語だという(馬場宏二『会社という言葉』)。世界情勢を知るため、オランダ語の地理書が翻訳される中、company、corporationの訳語として生まれた。19世紀半ばには幕府蕃書調所の蘭学者たちに共有されていたという。「学界・学芸集団」「同職、同志等特定階層の自発的集団」「広く仲間や集団」「今日の“社会”」の意味で使われたらしい。

「慶応義塾之記」の「会社」も同様の意味が含まれていたはずである。前回みたように『西洋事情初編』には、商人・学校・病院といった各種の「会社」が登場していた。いずれも目的を共有する有志による自発的結社を指していた。富田正文『考証 福沢諭吉』においては、『芝新銭座慶応義塾之記』における「「会社」とは英語でassociationとかsocietyとかいう意味である」と説明されている。文字上の知識を福沢が実際に観察し、その公共性の担われ方に示唆され、実行に移されたのが慶応義塾であった。今述べた、“association”(アソシエーション=結社)が広まってゆこうとする様子と“society”(社会)という言葉は、今後の交詢社にいたる道筋の中で注目してゆきたい点である。

★「中元祝酒之記」
―「社中自らこの塾を評して天下の一桃源と称し、その景況全く世と相反するに似たり。然りと雖も…」

よく知られているように、幕末・維新期は攘夷の風が吹き荒れ、洋学者というだけで命を狙われた時代。自伝によれば、福沢も夜は外出せず、旅行するときは偽名を使うほど用心したという。こうした中で戊辰戦争が始まる。江戸も戦場となった頃、慶応義塾は開講した。役人は政務を休止し、盗賊白昼横行、火災も随所で起きる最中である。学問をする者はいない。幕府開成所も閉鎖され、慶応義塾の塾生も激減する。戦乱という非常時、塾生には自らの藩の「国事」に従事する士族の子弟が多かった。100名近くいた生徒が30名に減り、最も少ないときは18名にまでなった。こうした苦境にありながら、福沢らが洋学に専念したところから新たな「公」の意識が生まれてくる。その様子を追ってみたい。

我国の洋学の始まりに関して「慶応義塾之記」は、開国によって「彼国の事情に通ずる任務」が生じたことにあったと説明する。だが重要なことは、そうした次元を超えて彼らが洋学を「天真の学」(天真:天から与えられた純粋の性、人の本性)として理解していた点だった。

「抑も洋学の以て洋学たる所や天然に胚胎し、物理を格致(格物致知の略:事物の理をきわめ知識を深くする)し、人道を訓誨(くんかい:おしえる・いましめる)し、身世(自分の一生)を営求するの業にして真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざる可らざるの要務なれば之を天真の学と言て可なからんか」(下線は筆者による、以下同)

国家に用立てる学問という意識は近代日本を特徴づける学問観である。しかし、福沢らの意識はそこに留まらなかった。そうなればこそ、攘夷・戦乱という「国事多端」の中で、洋学に沈潜することを正当化する必要があった。「慶応義塾之記」とともに『芝新銭座慶応義塾之記』に収録された「中元祝酒之記」からはそのことが伝わってくる。
冒頭にいわく、

「西洋事情外編の初巻に云へることあり。人、若(も)しその天与の才力を活用するに当て心身の自由を得ざれば、才力共に用を為さず。故に世界中何等の国を論ぜず何等の人種たるを問わず、人々自からその身体を自由にするは天道の法則なり」

 

この「天与の自由」の下では、人は各々「その才に長ずる所あり、その志に好む所あり。好む所は必ず長じ、長ずる所は必ず好む」という。それゆえ、戦いに臨むのも、学問に専念するのも同じだという。だが、学問に従事することは「唯自ら信じ自ら楽しむ」だけではない。「修心開知の道を楽しみ、私に済世(世を救う)の一斑を達するは豈に亦天与の自由を得るものと云わざるべけんや」と述べるように、彼らの学問への沈潜の背景には「私に世を救う」という公共意識が宿っており、それは「天」が認めるものだという意識があった。

攘夷や国事多端という世情は彼らの精神の上に重くのしかかっていたようである。一千字に満たない「中元祝酒之記」の文中で二度にわたって「世情と相反するに似たりと雖も」と自らの沈潜を問い直し、正当化している事実からそれは伝わってくる。重圧は塾の命名にも及んでいた。年号を名称にしたのは「人にも物にも差支え」ない故だった(「慶応義塾紀事」)。しかし、福沢らは「天与の自由」の下、「国事」に急な世情を相対化し、かえって自らの私事を公のものと捉え返してみせたのだった。

洋学に専念しようとする彼らと世情の緊張関係が、「会社」の公共的作用の発見に加えて、現実に「私」から発する「公」を生み出した。英国のパブリック・スクールの公共的性格を念頭に採用されたという「義塾」の言葉を冠した学塾がその後続々と出現したことは、「慶応義塾之記」のインパクトの強さを物語るだろう。

今回とりあげた「中元祝酒之記」には「天」という言葉が多く出てくる。この言葉は当時の福沢の思想から出てきたものである。「慶応義塾之記」において、入社資格が「志の有無にある」とされた点にも深く関わるものだった。




画像1

三田付近絵図

画像2

芝新銭座慶應義塾之記
   
 
 
 
 
       
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