近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)

草創期交詢社の研究ついては、政治的性格を強調するものと、社交団体としての非政治性に着目するものに二分される。このように草創期交詢社の性格が容易に断定しがたいものとなった理由を考えてみると、設立に際して福沢諭吉の念頭に短期と長期の意図があったことが要因の一つのように思われる。前回述べた『会議弁』での演説に関する2つの意図に対応するもので、交詢社には、国会開設に向けた政局の中での短期的な意図と、日常生活における意志の相互伝達と集団意志形成という長期的な意図があったように思われるのである。まずは短期的意図に注目しつつ考察を始めたい。

★国会開設運動と交詢社との関連―明治12年、13年

交詢社が構想された明治12年といえば、板垣退助、片岡健吉らによって再興された愛国社(土佐立志社を中心に組織された全国的民権組織)の第2回(3月)、第3回大会(11月)が行われ、それまで地域的には西日本、構成員としては士族中心だった愛国社が豪農民権結社とも手を携えて全国的な運動組織となり、翌年3月の国会期成同盟へと向かってゆく年であった。そして明治13年、14年と国会開設運動は一層の熱気を帯びるのである。前回述べた明治10年代の演説の流行はその現れであった。
 維新当初、明治政府は文明開化を主導する手段の一つとして新聞を積極的に利用しようとしてきたが、明治8年に至って讒謗律・新聞紙条例を制定し、政府を批判する新聞・雑誌の発行の抑圧を行うようになる。特に讒謗律(ざんぼうりつ)は官吏の職務を誹謗するものの処罰を定めていたが、出版物という言論活動に圧力が加えられたことによる人々の鬱憤も演説の流行に拍車をかけることになった。国会開設運動のさらなる高まりに対応して政府は明治13年に集会条例を制定し、政治集会・結社の事前許可制の採用、臨検警察官への集会解散権の付与、軍人・警察官・教員・生徒の集会の加入禁止といった措置を講じた。
 交詢社構想が始まった明治12年の夏、福沢は『民情一新』『国会論』を出版し、二大政党に基づいた政党内閣制を展開したが、交詢社結成と国会開設に向けた言論活動という2つの構想は同時期に行われており、全く切り離されたものだったとは考えにくい。川崎勝「交詢社設立についての一考察」によれば、交詢社に関して福沢は国会開設を睨んだ上で、そこへ送るべき人材を育成する場として考えていたように理解できるという。慶応義塾を巣立つ塾生たちが「学校外の活学問」(「交詢社設立之大意」)を学ぶ社会的な再教育の場として「社中」「旧友」同士の交流の場をつくろうというのである。確かにそのように考えれば、交詢社構想の発端が同窓会であったことも頷ける(第4回参照)。さらには明治13年の春には慶応義塾内で「会議講習会」が設けられた。これは国会を擬した議事討論の練習で、当時の福沢書簡は、塾中の壮年の者たちがいずれも乗り気になっているとの塾内の空気を伝えている。会議講習会の参加者は140から150人で、教員には小幡篤次郎、門野幾之進、鎌田栄吉、塾生には犬養毅、伊藤(林)欽亮、高島小金次らがいたという。

 

★塾内諸団体と交詢社巡回委員の派遣

前回述べたように三田演説会は演説文化の濫觴(らんしょう)となり、明治10年代前半における新しい政治文化の流行をもたらしたが、明治13年1月に発会した交詢社でも、発会後しばらく経った3月14日には早速、兵庫県の社員によって演説会が開かれた。重要な時事については常議員の許可の下に演説会を主催できるという社則第5条第8節に基づいた演説会であったが、10月からは交詢社主催の演説会が開催されるようにもなる。先に述べたようにこの時期は国会開設運動が盛んになった頃であった。3月17日の福沢の書簡中でも「旧冬より諸方の有志者なる者が続々出京、国会開設の願とて、なかなか賑々しき事なり。去年はコレラ、今年は交代して国会年ならん」という記述があり、同年に福沢は相模九郡の人々の国会開設建白書を執筆している。
 さて、三田演説会が始まった後、明治9年末頃から福沢の勧めで慶応義塾社中に協議社という団体が誕生し、明治12年春には猶興社が生まれていた。これらの演説・討論を主たる目的とする結社については『交詢社百年史』、松崎欣一『三田演説会と慶応義塾系演説会』に詳しいが、協議社には尾崎行雄、加藤政之助、桐原捨三、波多野承五郎らがおり、猶興社に犬養毅、伊藤(林)欽亮、高島小金治らがいたという。協議社の人々は新聞雑誌への寄稿、翻訳請負、そして塾外での演説活動に及んでいたが、明治13年の集会条例を機に猶興社員を合同して三田政談会(三田政談社)となった。こうした政治的な活動を行う卒業生や在学中の塾内諸団体の面々の多くは交詢社の社員でもあった。彼らは塾内団体で演説を練習し、成果を交詢社の巡回委員として示すことになる。
 明治13年から15年秋頃までの時期、交詢社は小幡篤次郎といった中心的な社員に加えて慶応義塾、三田演説会員であった矢田績のような若手を組み合わせて全国各地に遊説させた。巡回委員としての正式な派遣は9回、そうではないものを併せると12回を数える。しかも、それらの多くは地方の中心地で一回ずつ演説会を開催してまわるというものではなく、1ヶ月前後、時には2ヶ月以上各地方を旅しながら随所で演説会を行ってゆくというものであった。
 鉄道は新橋横浜間だけの時代であり、移動手段は遠隔地には船、さらにそこから馬車や人力車、時には徒歩という難儀をおしての遊説であった。『交詢雑誌』に掲載された巡回記などの遊説記事をみると、道路が舗装されておらず、雨ともなるとぬかるんで馬車や人力車でも容易に移動できなかった様子や、河川を往来する汽船では4畳ほどの船室に20名近くが乗船していたなど、その骨折りをうかがうことができる。演説場所は各地の学校や寺院、劇場、料亭などが会場となったようである。
 『交詢社百年史』が詳細な分析の上にまとめた巡回先を挙げてみると、北関東北陸(明治13.7.5~8.21)、栃木茨城千葉(明治13.8.23~)、京摂津東海道(明治14.6.1~7.1)、尾張三河遠江(明治14.6.6~6.27)、千葉県培根社大会(明治14.6.18)、北海道奥羽(明治14.8.31~10.22)、加賀越中若狭近江(明治14.10.5~11.9)、北越(明治14.10.5~10.20)、福島地方(明治14.10.11~10.28)、信越地方(明治15.5.14~6.12)、九州地方(明治15.5.27~8.4)、播磨・阿波・淡路地方(明治15.6.3~6.23)、遠州三河尾張伊勢(明治15.11.29~12.22)となる。交詢社が巡回委員を派遣した目的については、次回以降に。


【参考文献】



交詢社員による遊説については
・「演説会紀行」(『交詢雑誌』32号、「京畿巡回記」同51号、「足利行記」同、53号、『交詢社百年史』(財団法人交詢社、1983年)、第二編第三章)
 
福沢における交詢社と国会開設構想との関連については
・川崎勝「交詢社設立についての一考察」(『近代日本研究』第22巻、慶応義塾福沢研究センター、2005年)
 
擬国会に関する福沢書簡については
・明治13年2月22日付鎌田栄吉宛福沢書簡(『福沢諭吉書簡集』第二巻、岩波書店、2001年)
 
慶応義塾内の諸団体については
上記『交詢社百年史』
松崎欣一『三田演説会と慶応義塾系演説会』(慶応義塾大学出版会、1998年)
   
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