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立ち読み  
編集後記  第63巻4号 2015年4月
 

▼日常生活における自然な遊びの場を観察できる居住型の児童福祉施設における子どもたちの様子を見ていると、我々の時代の遊びとは全く趣が異なることに気づかされる。

▼子どもの遊び研究家には周知の事実であろうが、かつて行われていたかくれんぼ、オニごっこなどの遊びが“第一に”選択されることはあまりない。中庭や運動場には、たいていの場合、バスケットやサッカーのゴールが置かれ、ボールが転がっているものだが、子どもたちはそうした遊びの形式やルールがあらかじめ“整っている”道具を見つけると、その形式にのっとって、既定の道具で遊びを開始する。そして、既定の遊びが得意な者、優れた者がリーダーシップを発揮する中で、優劣が生じ、下手な者は上手な者の集団から自然な流れの中で排除され、「淘汰」ともいうべき、集団の均質化がなされていく。

▼例えば、サッカーであればドリブルやパスが苦手でチームプレイに溶け込めない不器用な子どもや年少児がいつのまにかゴールキーパーとなり、ゴールポストの周りで地面に「お絵かき」という状況が、まま生じることになる。そうした、つまらなくなった子どもは、周りにいる大人に助けを求めるかのように、「先生、あそぼ!」と致し方なく、受容的な遊び相手を求めるという構図である。

▼昔は良かったという懐古主義ではない。なにがそうした構図を生み出しているのか。室内での遊びを観察すると、そこには必ずテレビゲームが存在する。そして、特に男の子が魅せられ、没頭しているのが対戦型のゲームであり、相手をやっつけると、自分の手持ちの「技」が増え、そして、将棋の駒のような自分のコントロール下にある「戦士」が力をつけながらその数を増していく。不思議と、そうしたゲームの対戦相手としては、力の弱い者、小さい者が選ばれていることが少なくない。むしろ、積極的に相手としてそうした「弱者」が選ばれ、ゲームに勝利することに「陶酔」している強者の様子には、なにか、弱い者いじめを見逃し、放置している、大人としての自分の役割を放棄しているかのような、罪悪感さえ覚えさせられてしまうのである。

▼かつて、「みそっかす」「みそ」などという言葉があって、遊びにおける社会的弱者は、ルールの枠外に置かれ、守られていた。「みそっかす」は、オニごっこでつかまっても、オニにはならず、また、かくれんぼで見つけられても、もう一度、隠れることを許された。

▼最近の大学生はその言葉を知らない。「みそ」が当たり前であったのはどうしてだろうか。私の記憶は、ただ、「そうするのが当たり前」であったからであって、そうしなければならないことを教えられたことはない。社会において強者が弱者に勝つのは当たり前ではないこと、弱者は強者の優越感の道具ではないことを自然に子どもたちが身につけるには、いったい、どういう遊び環境を提供すれば良いのか、日常臨床の中で、考えさせられるのである。

 

(遠矢浩一)
 
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