特集にあたって2020年7・8月
コロナ禍が浮かび上がらせた世界・人・教育
望田研吾
コロナウイルスによる疫病が世界を覆いつくしています。五月十八日現在で世界の感染者は約四七〇万人、死者は約三一万人にのぼり、暗く長いトンネルの出口はまだ見えてきません。COVID-19はパンデミックとして文字通り世界中の全ての人びとの生命、生活そして社会に未曾有の被害をもたらしています。コロナ禍が世界中に広まりだしてわずか四ヶ月ほどですが、既に政治や経済の分野で「コロナ後」の世界が議論され、二十一世紀世界の基底にあったパラダイムはコロナ禍によって激しく揺らいでいます。またコロナ禍はその対策にあたる政治家の本性を浮かび上がらせています。さらに教育においても従来からの問題を大きく増幅させる結果をもたらしています。
コロナウイルスがこれほど短期間に世界中に蔓延した大きな原因はグローバリゼーションです。中国の一地方都市武漢で発生したコロナウイルスは、おそらく中国人観光客などを通じて世界中に運ばれたのでしょう。まさに「ある国の一地方でおきた出来事が世界中の人びとに影響を与える」というグローバリゼーションの本質をまざまざと見せつけたのです。しかし、コロナ禍に対してまず世界中の国がとった策は、連携や協力を旨とするグローバリゼーションとは真逆の国境閉鎖でした。こうした方向によって「コロナ後」の世界では政治、経済が自国中心へとシフトする「脱グローバリゼーション」の動きが強まることが予想されています。
コロナ禍への各国の対策の基本はロックダウンでしたが、その過程で浮かび上がってきたのは政治家たちの本性です。世界で最大の感染者と死者が出ているアメリカの二人の政治家の姿勢はその違いを際立たせています。ニューヨーク州のクオモ知事は、「われわれがこのように苦しいロックダウンに耐えるのは、死に至る確率が高い五%ほどの高齢者などの弱者のためだ」と強調しました。これに対しトランプ大統領の姿勢は一貫して経済重視です。当初トランプ大統領は、コロナウイルスはミラクルのように消え去るなどと科学的根拠を無視した楽観的発言を繰り返し、五月に入ると自身の再選を意識し経済重視の観点からロックダウン解除に前のめりになっています。メディアはこの姿勢を、金と命を天秤にかけるものだと批判しています。金か命か、これはどの国でもコロナ禍によって政治家に突き付けられた問いですが、それは私たち自身にも向けられたものでもあります。
コロナ禍は世界中の子どもたちの教育にも甚大な影響を及ぼしています。ユネスコによると五月十八日現在、全国的休校措置をとっている国は一五六ヶ国にのぼり、一二億人以上の子どもが通常の学校教育の機会を閉ざされています。多くの国ではオンライン授業に切り替えていますが、長引く休校は、社会階層間格差をさらに拡大させる結果をもたらしています。パソコンやタブレットの所有、インターネットへのアクセス、家での学習スペースなどの点で、どの国でも貧しい家庭の子どもは、恵まれた家庭の子どもに比べてきわめて不利な環境に置かれており、その結果学力格差がさらに拡大することを、教育者たちは危惧しています。さらに特に貧しい発展途上国では深刻化する経済不況によって、児童労働や虐待が一層悪化することも懸念されています。戦争の最大の被害者は一番弱い立場にある子どもたちと言われます。コロナウイルスとの戦いは戦争にもたとえられますが、その戦いの中で学習の機会を奪われ、虐待にさらされる子どもたちもコロナ禍の被害者となる危険性を、今の状況ははらんでいると言わざるを得ません。
こうしたコロナ禍によってもたらされている被害や影響の重要性に鑑み、本誌は当初予定した特集を急遽変更し、「社会不安のなかで子どもを支える」という特集を組むことにしました。今まで誰も経験したことのないコロナ禍の中で、この特集が読者の皆様にとって何らかのお役に立つことができれば幸いです。
執筆者紹介:望田研吾(もちだ・けんご)
九州大学名誉教授。教育と医学の会会長。教育学博士。専門は比較教育学。元日本比較教育学会会長、アジア比較教育学会会長。著書に『現代イギリスの中等教育改革の研究』(九州大学出版会、一九九六年)、『21世紀の教育改革と教育交流』(編著、東進堂、二〇一〇年)など。
編集後記2020年7・8月
新型コロナウィルスの感染拡大は、瞬く間に私たちの生活を劇的に変えました。働き方改革の下では、職場から離れた場所で仕事を行う「テレワーク」も一向に進まなかったものの、このコロナ禍で一気に普及しました。私たちが変わらざるを得ない外的な環境の変化の強さを痛感させられます。
他方で、子どもたちの環境はどうでしょう。学校での感染拡大防止と、何よりも子どもの命と健康を守るために、子どもたちはかつてないほどの長期間の休校を強いられました。こうした中で、子どもの「学び」をいかに守るかが話題になっています。自治体によっては、いち早くオンライン授業などが進められています。我が家の子どもも大手の教育事業者による無料のオンライン授業に申込み、パソコンの前で一生懸命に授業を受けていましたが、なぜかやる気が続きません。一体なぜなのでしょう。
学習すべき知識を習得するだけであれば、オンライン授業は大きな効果を持っています。しかし、リアルな学校という場が持つ意義は、それだけではありません。子どもたちは、先生とやり取りをすることで理解を深めるだけでなく、学級集団という多様な子どもたちと共に学ぶことで、視野を広げ、意欲を高め、そして社会性やコミュニケーション能力などの非認知能力を育む機会になっていました。かつて、グループダイナミックスの生みの親であるクルト・レビンは、集団で起こりうるダイナミックスな現象は、個別の要素だけでは還元できず、個と個が互いに影響を及ぼし合う「心理的な場」によって作り上げられるとして『場の理論』を提唱しました。改めて、子ども同士が刺激し合い、そして学び合う「場」の存在の重要性に気づかされます。
今後、ウイルスの第2波や第3波の到来が予想されます。学校も再び休校の措置を取らざるを得ない状況にも直面するでしょう。子どもの「学び」を守るためにオンライン授業の活用が拡大していくなかで、同時にオンラインでも学級集団という場を作る工夫も必要になるでしょう。
(池田 浩)