教育と医学

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特集にあたって2020年5・6月

教育現場における多様性・ダイバシティ

田上 哲

 今日、日本の教育現場においても、多様性という言葉がよく聞かれるようになってきました。多様性は重要なキーワードです。しかし同時に、日本の教育現場において多様性という言葉はある意味マジックワード的なものになっているともいえるのではないでしょうか。

 もともと多様性という言葉はダイバシティ(diversity)という言葉を日本語に訳したものです。ダイバシティはいろいろな分野で使われています。例えば、国家や社会におけるダイバシティは人種・民族・宗教・文化など様々に異なる人々が互いに排除、排斥し合うのではなく、一緒に存在していることを示すものです。そして、様々に異なるものが一緒に存在することによって、そこから新たな創造や革新(イノベーション)がもたらされるということまでを包括したものです。

 日本の教育現場で多様性という言葉が使われるようになった背景には、「ニューカマー」と呼ばれる、外国にルーツを持つ子どもたち、独特の性的指向や性自認を有し自分の性に違和感を覚える性的マイノリティの子どもたち、またASD(自閉症スペクトラム)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)やLD(学習障害)等と診断された発達障害の、あるいはその傾向があるととらえられる子どもたちの数が増大してきていることがあるといえるでしょう。このような子どもたちにこれまでのやり方が通用せず、どのように対応するかが教育現場の課題になっています。

 ただし同時に、例えば、インクルージョン(包括)という考え方が重視されながら、特別支援学級、特別支援学校に在籍する児童生徒の数も急激に増えてきています。また、少子化にもかかわらず、小学校・中学校・高等学校のそれぞれで、学校に行きしぶる子どもたち、不登校の子どもたちの数も増加しています。これは、日本の教育現場において、同質であることが強く求められ、その枠組みや形式に少しでも反するものを、異質なものとして分離し排除していこうとする傾向が一層強くなっていることを示すものではないでしょうか。

 多様性という言葉がある意味マジックワードだというのは、機械的、規範的にこの言葉が使用されることによって、多様性が担保されるようなイメージが醸成され、教育現場における、同的な方向に反するものを異質なものとして分離し排除していこうとする傾向を隠蔽してしまうからです。

 教育現場において「多様性」や「ダイバシティ」という言葉が指し示す方向性は、子どもたち一人ひとりがもともと多様であること、すなわち互いに独立したそれぞれ異なる唯一の存在であること、その存在を人間として互いに尊重し認め合いつつ一緒にいて相関わることによって、人間形成、自己形成を遂げながら、新たな創造や革新を生んでいくことを確認し自覚する必要があります。

 本特集号が、教育現場において、とりわけ子どもたちが直接関わり合う学級において、多様な子どもたちへどのように対応するかにとどまらず、そもそもそれぞれ多様である子どもたち一人ひとりが生きる実践とはどのようなことか、考えていくきっかけになることを期待しております。

執筆者紹介:田上 哲(たのうえ・さとる)

九州大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。香川大学教育学部助教授などを経て現職。著書に『日本の授業研究〈上巻〉授業研究の歴史と教師教育』(共著、学文社、二〇〇九年)、『「授業研究」を創る』(共著、教育出版、二〇一七年)など。

編集後記2020年5・6月

 昨年、小学校に入学した娘の学級に、ポーランドから来た女の子がいました。研究者であるお父さんの仕事の関係で家族とともに来日した彼女は、「日本の学校」という異世界に言葉も分からずに分け入ったことになります。他の児童も「学校」という空間に初めて参入したことを考えれば誰もがニューカマーであると言えますが、クラスの中では誰もが自然に、多様さを多様なまま受け入れているように私の眼には映りました。

 しかし、それでも共通言語を全く解さない彼女の異世界での経験はひときわ大変なものだったろうと思います。新学期の参観会の折、廊下で両親を見つけた彼女が突如、泣き出してしまう場面に遭遇しました。その涙の意味は、おそらく本人にも言語化できないものであると思いますが、日々の緊張に満ちた世界に家族が入ってきてくれたことによる安心感があったように感じます。それは翻って、彼女には「学校」という世界が、自分がスムーズには入り込めない世界として映っていたのではないでしょうか。

 かつて生物学者ユクスキュルは『生物から見た世界』という著作で、「環世界」という概念によって、それぞれの生物種が異なる独自の「世界」を生きていることを明らかにしました。すべての生物が決して同じ世界を見て生きているわけではないことを示した意義はとてつもなく大きなことです。そして人間もまた、ヒトの「環世界」を生きています。それは文化や言語による差異を有するとともに、個人個人でも異なるものかもしれません。何より、人間は成長の過程で他者と出会い、言葉を理解し、意味を知ることで、「環世界」を造り替えていくとさえ言えます。それゆえに、多様な他者の存在は一人ひとりの「環世界」の豊かさを可能にする条件なのです。

 4月から半年ほどを経た頃、楽しそうに歌を歌いながら学校に向かう彼女に何度も出会いました。それは「適応」というよりも、自らの「環世界」と友人たちの「環世界」を豊かに再編した姿だったように思えてなりません。

(藤田雄飛)

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