教育と医学

子どもの育ちを
教育・心理・医学から探る

特集にあたって2022年1・2月

「学び」を守るために、今立ち止まって考える

藤田雄飛

 コロナ禍が続くなかで、学校は闘い続けています。二〇二〇年三月に始まった唐突な一斉休校をくぐり抜け、再開後は感染症対策による衛生的な空間維持の努力を教員・生徒が継続的に展開し、不可抗力的に生じる感染症の波を漕ぎ抜けるために日々の生活上の工夫やオンライン授業を駆使して学びを多様な形で担保してきました。それはすべての教師の闘いであり、すべての子どもたちの闘いであり、教育の制度の闘いであり、教育実践の営みそのものの闘いでもあります。世界が国境線によって分断されながらも、コロナと闘うということにおいて一体であるのと同様に、コロナに抗する教育そのものがひとつの有機体のように「学び」を守ろうとしているかのようです。教育とは価値であり、人間の努力の結晶であり、生そのものであるということを、私たちは実感として自らに刻みつけてきたのではないでしょうか。コロナに抗する意志と無数の努力の積み重ねの上で、教育もまた世界と対峙しています。

 ところで、こうした状況は私たちの歩みを緩やかにしてしまいかねませんが、立ち止まることが必要な時があることもまた事実です。それは社会全体が思考することを求められている「哲学」の時であるように思われます。いつの間にか抱えてしまった自明性を問い直し、省察し、解きがたい問いに向かい合うのが今ではないでしょうか。学校もまた、実践的な試行錯誤をとおして、「思考」しているようにさえ思われます。

 

 かつてイリイチは、『脱学校の社会』(一九七〇)のなかで「社会が学校化されている」というセンセーショナルな指摘を行いました。社会の全体が学校制度に依存し、その価値を内面化していくことによって、私たちは学校で教えられることによってのみ学習が成立すると考えるようになっています。学校以外の生活世界において学ぶことが多いにもかかわらず、です。この意味で、ビフォアー・コロナとは学校化された社会との相互補強関係によって学校の絶対性が信じられていた時代だったと言えるでしょう。

 しかし、コロナ以降、学校の神話はほころびを見せ始めたように思われます。オンライン授業は、教育を学校に閉じ込めてきた伝統を掘り崩しつつあります。本号において増田健太郎が学校現場のリアリティを精緻に描く中で指摘したとおり、オンラインは学校現場のあり方そのものを転換させるインパクトを持つものです。青木栄一・神林寿幸はこれまで漫然と行われてきた教師の業務の精選がコロナ禍において生じたことを透徹したまなざしで描き出しています。それらはいずれも、学校化した社会の神話が問い直される契機であると同時に、私たちが学校を相対化する現場に立ち会っていることを開示するものです。その他の諸論考も学校制度の暴力性と抑圧性を糺弾していった近代教育批判の性急な議論とは異なる、地に足のついた確かな分析によって学校現場と教育のリアリティを明らかにしています。

 私たちは今、学校を問う岐路に立っています。それが絶対的な制度でも空間でもないことに気づきつつあるのは、学校が良い意味で「揺らいでいる」今だからこそなのです。そして学校も同様に、コロナ禍において試行錯誤をしながら自らの可能性を問うているかのようです。先のイリイチは学校に依存することにとって代わるための作法として、「人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すこと」(前掲書、一三六頁)を強調していました。学びは学校で教えられたものに閉じられるはずはありませんし、むしろ私たちは学校をそのうちに含んでいる、環境と人間との多様な出会いに開かれて生きています。そうした地点に立ち返り、「ここが世界の全てなのではない」ということを子どもたちに示すことは、学校という場にとっても、そして何よりこれからの子どもたちにとっても救いなのではないでしょうか。

執筆者紹介:藤田雄飛(ふじた・ゆうひ)

九州大学大学院人間環境学研究院教授。博士(人間・環境学)。京都大学大学院人間・環境 学研究科博士後期課程修了。専門は教育哲学。大阪大学大学院人間科学研究科助教等を経て現職。著書に『人生の調律師たち――動的ドラマトゥルギーの展開』(共著、春風社、二〇一七年)、『教育/福祉という舞台』(共著、大阪大学出版会、二〇一四年)ほか。

編集後記2022年1・2月

 本特集号は、学校現場のリアリティとその支援について取り上げています。コロナ禍でオンライン授業も多くなり、国内・海外でのフィールドワークもできずリアリティを感じることが少なくなりました。体感では、オンラインでの情報量は対面の3割ぐらいかと思います。四角いパソコン画面からの限られた視覚情報と音声情報、使われるのは視覚と聴覚のみです。五感を働かせての情報共有ができないことを感じます。どんなにインターネットが発達しても、全ての情報を得ることや体験することはできません。インターネットに限らず、便利なものには必ずリスクがあることを意識しておきたいものです。

 一部の新聞・ニュースでは報じられていましたが、ある市では前倒しで全学年が35人学級になり、学級人数が多かった学校も随分よくなるだろうと考えられていました。しかし、3月末にある学校から、「実は、教員の追加配置がないから、専科教員を学級担任にするしかなく、誰を担任にするか大変困っている」という話を聞いて驚きました。

 いじめ事件や自死、不登校が増加するたびにスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの増員や全校配置などが喧伝されますが、月に1回、4時間勤務でも配置されたことにカウントされている現実があります。データやニュースの裏側にあるリアリティは、現場に行かないと理解できないと考えさせられます。いじめ防止対策防止推進法ができて11年が経ちますがいじめ関係での自死事件は絶えず、第三者委員会でも因果関係が認められずに裁判になる事例も多数あります。教育行政関係者には、視察ではなく、ぜひ1日教室で教師体験をお勧めしたいと思います。教師のメンタリティを守り、子どもたちの学びの保障をする学校理解のために、とても大切なリアリティ体験になることだと思います。

 行政と教育現場、理解と体験、そして実践の間には大きくて高い壁があることを忘れずにいたいと思います。自戒の意味もこめて。

(増田健太郎)

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