特集にあたって2025年3・4月
インクルージョンの今日的意義
藤田雄飛
「インクルージョン」はいまや現代社会の共通理念となっています。
そもそも私たちは人々とともにある存在として社会の中で生きています。つねにすでに誰かと「共にある」ということは、私たちが生きる上でいつも確認しなければならない基盤だと言えますが、そうした基盤にもかかわらず、多様な人々と「共にある」ということは時に揺るがされ、無かったものとされてしまいかねない危うさのうちにあります。私たちが「共にある」ということの範囲を自らと「同質」な人々との関係に閉じてしまうとしたら、そうした視野狭窄こそが排除のメカニズムを引き起こしていると言えるでしょう。社会的な排除とは、まさに多様な人と「共にある」ということの忘却や隠蔽の先で生じるものなのです。インクルージョンとはそれゆえ、多様な人々と「共にある」ということに立ち返ろうとする態度であり、宣言であると言えます。
しかしながらこの共通理念が人々に共有されて達成されているかといえば、それはまだ過渡的な道のりにあるといわざるを得ません。教育においては尚更です。「インクルーシブ教育のこれから」と題した本特集をいまこそ問わなければならないと考えた所以です。
人間とは環境・世界の内にあって、それに向かい合って生きる世界内存在・環境内存在であるといえますが、ある環境のなかで齟齬なく過ごす人もいれば、そこで立ち止まる人もいます。人間とは環境との間でインタラクションをしながら生きる存在であるとすれば、障がいとは人間と環境との間で生じるミスマッチのことであり、それを個人の属性へと還元できるわけではありません。こうした人間と環境との相互性の図式のもとで障がいを捉える視点を本特集でも多くの論考がとっており、様々な実践として結実しているダイナミズムを感じることができます。多様な学習者のニーズに合わせた選択肢とアクセシビリティの向上による「教育のユニバーサルデザイン」の構想と新たな学習エージェンシーの生成の可能性(菊池氏)、通常の学級で共に過ごし共に学び、必要に応じて別の場でも学ぶ可能性に開かれたシステムへの転換(野口氏)、心理的・制度的・物理的さらにはランドスケープにもおよぶ多層的なインクルージョンを内包するインクルーシブな大学キャンパスのあり方(吉田氏)、環境に応じて変わるニーズを的確に摑み差異に開かれた教育実践を行うスコットランドの先進例(伊藤氏)、身体活動やスポーツの枠組みを共生意識を形成するインクルーシブなものへと拡張する可能性(安井氏)など、人間と環境との相互性のもとでインクルージョンについて志向する豊かな知見が示されています。
さらに、徳永氏は学びを個体的能力の発現として捉えるのではなく、社会的能力として捉えることで、インクルージョンの視点からすべての子どもの学びを見直し、「インクルーシブな教育学」として教育のパラダイムシフトを構想しています。また、倉石氏がランシエール、ビースタという現代の哲学者たちと共に構想する「トランスクルージョン」は、排除されている人々のみを包摂するという排除と包摂の二重運動に陥りかねない従来型のインクルージョンのあり方を実践の内部において脱臼させ、「異なる種類の包摂」との間で往還する運動へと開いていく刺激的な概念となっています。常識の盲点を突き、「地平」そのものを揺さぶるような「法外な」実践が、インクルージョンの対象とは異なる共同体の新たな成員を生成させていくという「トランスクルージョン」の可能性が示されています。本特集が、インクルーシブであるとはどういうことかを考える機会になればと願っています。
執筆者紹介:藤田雄飛(ふじた・ゆうひ)
九州大学大学院人間環境学研究院教授。博士(人間・環境学)。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。専門は教育哲学。大阪大学大学院人間科学研究科助教等を経て現職。著書に『人生の調律師たち――動的ドラマトゥルギーの展開』(共著、春風社、二〇一七年)、『教育/福祉という舞台』(共著、大阪大学出版会、二〇一四年)ほか。
編集後記2025年3・4月
ここのところアメリカでは、トランプ大統領就任に伴い、企業等においてDEI(Diversity, Equity &Inclusion:多様性、公平性、包摂性)指針が次々に見直されていると報じられています。大変ショッキングなニュースですが、実際には大統領交代で万事が左から右へ一気に方向転換した、という単純な話でもないようです。
例えば2023年にはすでに、大学入試において人種的多様性を確保するため取られてきたアファーマティブ・アクションを逆差別で違憲とする米最高裁判決が出ていました。これは現在のDEI 撤回の動きの先駆けをなしたものと言われています。けれどもそこでは、多様性が単純に否定されたわけではありませんでした。あくまで多様性維持は重視しつつも、人種ではなく家庭環境や経済状況に基づいて対処すべきである、と規定しているからです。「人種」という固定的尺度ではなく、より個別的、可変的な尺度によって格差是正を講じるということです。
こうした視点、尺度の転換はインクルーシブ教育を考えるうえでも重要です。教育とは生徒を変容させるものであり、むしろ生徒を変容可能な存在と想定しなければ教育は成り立ちません。だとすれば、どこまでも変容してゆくべき生徒たちをいくつかの固定的カテゴリーに分類し、そのギャップを埋め合わせるような硬直的措置を取ることは教育の本旨にそぐわないでしょう。むしろ、生徒ひとりひとりのあいだの個別的、可変的な差異に注目し、それを変化させるよう働きかけてゆくほうがより包摂的なはずです。教育現場におけるカテゴリー化を避け、個々の生徒にとって必要な配慮を連続的かつ柔軟に行ってゆくこと。これが、特別支援学校・学級や合理的配慮の運用を考えるうえで重要であることは、本号所収の徳永論文でも指摘されているとおりです。
DEI 撤回の動きは非常に憂慮すべきものですが、その劇的展開のなかには、多様性や包摂性について考えてゆくためのヒントも意外に含まれているように思うのです。
(蓮澤 優)