教育と医学

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特集にあたって2019年9・10月

複雑化・多様化するいじめに向き合う

増田健太郎

 いじめが原因と考えられる中学生・高校生の自殺があとをたたない。二〇一三年度にいじめ防止対策推進法が制定されてから、いじめ防止対策委員会などができ、各自治体・各学校でいじめ防止対策ができているはずである。自殺がおこったあと、第三者委員会によって、いじめ事案の調査が行われるが、いじめと自殺との関連がないとの報告がなされ、第三者委員会そのものが再度組織される事案も増えている。

 いじめは古くて新しい問題である。子ども同士のいじめだけではなく、大人のハラスメントも広義にはいじめである。いじめを受けている子どもからすれば「死にたくなる」ような行為から、外形的には叩いたりしているが、けんかの延長線上のようなもので、お互いに納得している関係が修復するものまである。

 いじめは多様な形態があり、また、連続的である。しかし、「いじり」という新しい形態のいじめもあり、いじめの定義そのものが難しい状況にある。また、近年では、ツイッターやインスタグラムなどのSNSでのいじめも増加している。

 ネットでのいじめは、同じ空間にいなくても、バーチャルな空間で、写真や言葉によりリアルに人の心をえぐる。心の傷だけではなく、半永久的にネット上に残ってしまう。また、子ども同士のいじめと同列には論じられないが、教師による指導死・体罰の問題も学校には多数存在する。教師の有り様や対応が、いじめを誘発し助長していることもある。また、一人を複数でいじめているものが、自分がいじめることによって、他からいじめられないよう自分を保っている場合もある。いじめは従前にもまして複雑化・多様化している。

 そこで、本特集は、改めて、いじめ問題とその対応・予防策を七名の論者で多角的に考えたいと思う。大澤氏は、ご自身の子どもさんがいじめ自殺をされた方である。自分の子どもが自殺をするという筆舌に尽くしがたい体験をされ、今でもいじめ自殺をされた保護者のもとにすぐに駆けつけ、多様なサポートをされている。土井氏はいじめの問題を社会的文脈の中でとらえ、どのように変質しているのか、その社会的文脈を読み解く中に、いじめ予防のヒントがある。情報ツールとしてのSNSは現代の児童生徒には欠かせないものであるが、安川氏がSNSでのいじめの現状とその対応について紹介する。いじめは学級の中だけではなく、部活動・スポーツクラブの中においても数多く発生する。部活動において問われている指導方法といじめの関係について庄形氏に論じてもらう。

 いじめ自殺が起こったとき、どのような緊急支援が必要なのか。多数の緊急支援を行っている向笠氏にその方法を紹介してもらう。いじめ自殺・いじめは、事後対応よりも事前予防が極めて重要である。調査上のデータにはないが、いじめ予防や即時の対応によって救われた生命は数多くあると思われる。春田氏は弁護士の立場から、いじめ防止授業を行っている。いじめと法律の関係を読み解くとともに、いじめの被害者・加害者がどれだけ心理的な傷を負っているかの実践的授業の紹介をしてもらう。最後に、多様化し、見えにくくなったいじめを学校がどのように見抜き対応するのかを、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの経験があり、教育現場を熟知している野田氏から論じてもらう。

 いじめの調査は数多く行われている。また、いじめ予防にも日々取り組んでおられる学校・教職員も多い。しかし、いじめ自殺はなくなっていない。本特集で、一人でも多くの子どもたちの心と生命が救われることを願う。

執筆者紹介:増田健太郎(ますだ けんたろう)

九州大学大学院人間環境学研究院教授。九州大学総合臨床心理センター長、公認心理師。臨床心理士。教育学博士。専門は臨床心理学、教育経営学。九州大学大学院人間環境学研究科博士課程単位取得満期退学。著書に『不登校の子どもに何が必要か』(編著、慶應義塾大学出版会、二〇一六年)、『〈特集〉いじめ・自殺』(編著、『臨床心理学』16(6)、二〇一六年)など。

編集後記2019年9・10月

 いじめ防止対策推進法が制定されて、いじめの認定基準は「『他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為』により『対象生徒が心身の苦痛を感じているもの』」となりました。いじめられた認識があれば、いじめとして認定されるということになり、結果として学校におけるいじめの認知件数は、大きく増加しました。

 筆者は、ある市のいじめ防止対策委員会のメンバーです。委員会ではその市の小学校、中学校でのいじめの状況の報告があり、いくつかの案件について協議しています。協議を通して考えることは、いじめが日常的なものになっているということ、そして改めていじめとは何かということです。狭い教室に同じ年齢の子どもたちを強制的に閉じ込めて勉強させる学校教育そのものがいじめを促す装置になっているという考え方もあります。いじめ認定の基準の前提にも、いじめは日常的なもの、いつ起こっても仕方ないものとしてとらえてよいという考え方があるのではないでしょうか。

 しかし、教育を人間形成/自己形成としてとらえる立場からは、そのような考え方はやはり何か転倒していると考えざるをえません。教育哲学者の上田薫氏(2013)は、「相手を人間として全体として捉えるということができていないために、いじめの問題が生じる」「幼稚園や保育園の頃から、一人一人の子どもの個性を互いに子どもが認識しあうように指導していく必要がある。そのように育って初めていじめは克服できる」と述べています(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/095/shiryo/attach/1335362.htm)。幼い頃から、そして学校教育の中で、「相手を人間として全体として捉える」「一人一人の子どもの個性を互いに子どもが認識しあう」ということはどのように可能でしょうか。本質的に考えればこのようなことは当たり前ではないかと思うのですが、それができないのはなぜでしょうか。そして、それは子どもたちだけの問題ではなく、むしろ私たち大人自身の問題として考える必要があるでしょう。

(田上 哲)

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