こころとからだを科学する
教育と医学
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巻頭随筆
第54巻4号 2006年4月
子育て支援政策と保育の質  小川博久

  今日ほど、幼児教育が世情の関心の的になっている時代はない。よく政治家は「三つ子の魂百までも」という諺を引用し、幼児教育は大切だという。しかし、日常、幼児教育にはあまり関心を寄せない人のほうが多い。理由は簡単で、教育を未来投資として考えた場合、中等教育や大学教育と比べて、その効果は保障されていないことが多いと考えられているからである。ところが、子育て問題が今、脚光を浴びている。理由は、それが近未来の経済問題だからである。少子化は、近未来の労働力保障という経済問題につながるからである。 厚生労働省が平成6年に公表したエンゼルプランに始まり、以来、子育て支援政策は、厚生労働省、文部科学省の両省庁のイニシアチブで、地方自治体に下ろされ、様々な形で施策として実現されている。一方、マスコミもこの一連の政策実現に関心を寄せ、大衆の注目を集め、ブームの感さえある。 ところで、われわれ幼児教育の専門家と見做される側にとってみれば、急に脚光を浴びせられたような状況に戸惑いを隠せないのである。というのは、幼児教育は、人間形成の土台作りであり、その成果が歴然と現れるようなものではない。予備校の教育のように短期に成果を求めるわけにはいかない。それゆえ、地道に、日常の営みを積み重ねることに関心を払ってきた。言い換えれば、保育の質を高めることに腐心してきた。 ところが、一連の子育て支援事業は、華々しく、鳴物入りで、全国的に子育て支援センターをつくり、幼保一元化、幼小の関連、総合施設づくりと展開されてきた。赤字解消をめざす自治体は、親方日の丸を背に受けて、幼・保を統合し、公設民営化を推進している。母親の育児不安を解消し、安心して賃金労働に参加できる施策の具体化がなされつつあるかのように見える。 全国的に展開されている子育て支援策の動向は、トップダウンで見れば、順風満帆のように見える。はたして少子化に歯止めはかかるのであろうか。その結果が成功か否かについては早急な評価はできない。とはいえ、楽観的な予測も立てられまい。危惧する問題点も多く含まれているからである。 まず第一に、子育て不安の解消を施設保育に委ねてしまって、父母の子育て責任は十分に果たせるのかという疑問である。近年、幼稚園・保育所の小さなミスを一方的に告発する父母が多く、自分の子育ての問題点を反省する親が少なくなっているという事実は、子育ての労力をお金で買うという感覚が拡がったという意味で、子育ての市場原理化が進行している可能性が大きい。とすれば、子育て支援政策がプラスに働いているとはいえないということになる。 第二の問題点は、一連の支援政策は、新しい制度改革(支援センターを建設する、総合施設を作る等)には熱心であるが、これまで約120年の歴史の中で積み重ねてきた幼児教育の実践上の知恵や専門性は、現代においてきちんと継承されているかどうかという点である。子育て支援策が華々しく展開する中で、幼保の一元化や総合施設の運動の陰で、費用削減の名のもとに、ベテラン保育者がリストラの対象になったり、公立幼稚園の保育者研修の機会が著しく軽減されたりしている。 幼児の自立的成長発達を保障する保育の質は、果たして守られるのだろうか。今こそ、反省の機会である。


執筆者紹介
小川博久(おがわ ひろひさ)
聖徳大学人文学部児童学科教授。専門は、教育方法学、保育学(幼児教育学)。1936年生まれ。東京教育大学教育学研究科博士課程中退。日本保育学会会長、野外文化教育学会会長、教育方法学会理事。関東教育学会常任理事、紀要編集委員長。著書に『21世紀の保育原理』(同文書院、2005年)、『保育援助論』(生活ジャーナル、2000年)など。
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