こころとからだを科学する
教育と医学
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巻頭随筆
第54巻1号 2006年1月
真の「ゆとり教育」とは   梶田叡一
 日本の1990年代は「ゆとり教育」の大合唱であった。そして、1992年および2002年から小学校で完全実施(中学校は次の年)の二度の学習指導要領改訂は、内容も時間数も大幅に削減して学校に「ゆとり」を生み出そうという趣旨のものであった。
 これによって、本物の「ゆとり」が子どもにも教師にももたらされたのなら、幸せこれに過ぎるものはない。「ゆとり」がなくては、学ぶ側も、学習を内面深く根付かせることができないし、教える側にしても、じっくりと子ども一人ひとりが本当に分かるところまで指導することが不可能である。さらには、「ゆとり」がなくては、学校生活そのものが常に何かに追い立てられたように慌ただしい、不毛なものになってしまうであろう。
 しかし、90年代の「ゆとり教育」は、「好きな時に好きなことを好きなようにやるのが最も幸せ!」「何事に付け楽なのが一番!」といった安易で怠惰な刹那主義的人間観を土台としたものであった。だからこそ、「“頑張れ”と言っては駄目!」「指導ではなく支援を!」「嫌いな勉強を無理にさせることはない」「知識や理解でなく関心や意欲をこそ重視すべき」等々といった言葉が、当時の文部省幹部や教育学者の口から吐かれ続けたのである。
 当時の「ゆとり教育」は、反努力主義であり、反知性主義であった。フロイト的に言えば「快楽原則」で生きることの全面肯定であり、自我や超自我の働きの加わった「現実原則」なり「価値原則」なりで生きることの軽視あるいは無視でしかなかった。こういうことであるなら、「ヒト」を社会化し個性化して人間に育て上げていく、という教育の原理に根本から反するものだったと言うしかない。
 この反動で、21世紀の滑り出しの数年間は「基礎・基本の徹底」が声高に言われた。このきっかけとなったのは、各種の調査で、90年代を通じて子どもたちの学力が低下しており、また不登校等といった問題現象が増え続けている、という状況が明らかになったことである。そして「反復練習の重視」「ドリルの重視」「指導の重視」が強調された。しかし、極端から極端への動きは、また新たな是正の時期を迎えることにならざるをえない。教育には常に総合的な視点とバランス感覚が不可欠である。本来、「ゆとりか学力か」でなく、「ゆとりも学力も」でなくてはならないのである。
 我々が主張してきた「内面性の教育」では、「学習者一人ひとりに固有の内面世界の深化・発展」と「各自の内面世界に根ざした思考・判断の習慣と力量」の実現を目指してきた。また「学習者一人ひとりの内的促し」を重視し、「各自の顔の後ろの世界に届く指導」を心がけ、「各自の実感・納得・本音を基本とした活動」を重視してきた。「ゆとりも学力も」共に実現しようとするなら、こうした「内面性の教育」の視点が不可欠ではないだろうか。印象批評的あるいは心情的なだけの教育論に惑わされることなく、不易の教育原理をこそ求めていくといった姿勢を堅持したいものである。
執筆者紹介
梶田叡一(かじた えいいち)
兵庫教育大学学長。大阪大学教授、京都大学教授、京都ノートルダム女子大学学長などを経て現職。文学博士。専門は心理学、教育研究。著書に『自己意識の心理学』(東京大学出版会、1988年)、『基礎・基本の人間教育を』(金子書房、2001年)など。
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