こころとからだを科学する
教育と医学
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巻頭随筆
第53巻12号 2005年12月
この子が求めていることに応える   津守 眞
 目の前にいる子どもが求めていることに応えることが、かかわりの出発点である。あとでねとか、これこれのことをしたらやってあげるという条件付きでなく、いま、この子がしようとしている心の動きに敏感になり、柔らかく受け止めていると、その子が心の底で願っていることが何なのか、経過の中で次第に見えてくる。そうしていると、子どもにも大人にも思いがけない未来が開けて、具体的な次の生活が展開する。
 話せない、動けない子どもも同じである。その小さな動きに目を留め、耳を傾けると、私にもきっと分かることがある。
 幼い時がだいじである。最初の出会いの時が、ずっと後までも決め手になることもある。子どもから信頼され、子どもを信頼するところから心の通い合いが生まれる。これは保育、教育の現場で起こることである。科学的な原理や法則の応用とは違う。人と人とが直接に触れる時に誰もが体験することである。
 この人間本来のかかわりが妨げられる場合もある。大人の先入観が邪魔する場合である。子どもは、差別とか、偏見という言葉は知らなくても、差別され、いわれのない誤解をされた時、その人との間に生じる違和感、その社会に瀰漫(びまん)する排除の雰囲気を敏感に察知する。誰とでも対等に、同じ地面の上で交わること。大人になった人間に、それがなんと難しいことか。無意識の中に忍び込んでいる悪の力と言ったらいいだろうか。それは日常生活での呼び名に象徴的にあらわれる。たとえば、本来対等の関係であるべき人々との間で、職場でも、「○○くん」と呼ぶ時、目下の関係を作っていないか。この意味で「障害者」「障害児」と言う呼び名も注意しないといけない。そう呼ぶ時、そういう特殊な人間が実体として存在すると勘違いしてしまう。そこで私は「障碍をもつ人」と呼ぶことにしている。人である点は誰もが同じである(石偏の碍では、目から石を取り除けば障碍でなくなる)。
 この子は何も分からないだろうと考えて小さい子扱いをすることも、人間関係での先入観である。夜眠れないで泣き騒ぐ子どもがいた。どんな面白い童話を読んでも効果がなかった時、私は自分の言葉で、眠れない時の夜の長さや不安を語った。たまたま出会った一冊の本、『かみさまどこにいるの』(コイノニア社)をゆっくり読んだ時、その子は穏やかに朝を迎えた。数日後、その子は死んだ。忘れることのできない私の体験である。以来、私は、難しすぎると思いながら、私自身が子どもの時から慣れ親しんだ「聖書物語」を子どもたちに読む。そして本気で自分が考えていることを、その子との対話に加える。学校でもベッドで過ごしている子どもが真剣に私を見つめ、目を輝かせて聞いてくれる。分かるはずはないと最初は思っていたのに、歴史の中で練り上げられた古典のもつ力に私は驚く。耳を傾けるに値する文章。「般若心経」でも「正法眼蔵」でもいい。大人が真剣に求めて読む本は、子どもの心に響く。この子には分かるはずがないとする先入観こそが、コミュニケーションを疎外する。この子は一緒に人生を歩み学ぶ仲間である。この子は、生活の最前線で、世界の平和の一翼を担う仲間である。言葉を巧みにあやつる大人たちが、混沌の渦の中でなすすべもないこの時代にとくに。
執筆者紹介
津守 眞(つもり まこと)
学校法人愛育学園理事長。お茶の水女子大学名誉教授。世界幼児教育・保育機構(OMEP)名誉会員。専門は保育学。著書に『保育者の地平』(ミネルヴァ書房、1997年)、『保育の体験と思索』(大日本図書、1980年)、『乳幼児精神発達診断法』(大日本図書、1961年、増補2002年)など。
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