こころとからだを科学する
教育と医学
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巻頭随筆
第53巻3号 2005年3月
恥の感覚と行動原理について   鑪 幹八郎
 「引きこもり」についてのシンポジウムが先日開かれた。その中で実際に長年引きこもっていた人やその親たちの話があった。親の気持として「このようになっているのは、自分たちの子どものみだ。本当に恥ずかしい気持である」という発言があった。また、引きこもりの本人としては、「自分は最低の存在だ。恥ずかしい」「とてつもない恥ずかしい存在としての自分がある」という。本人や親の自己像がひどく傷つけられている様子が語られた。自己像が傷つき、自己への評価が低下するように感じられている。世間並みでない自分はつまらない人間、価値のない人間という感覚を得ている人の体験が語られた。
 このために、世間に顔出しができず、家を出て知り合いに会ったり、集会に出ると、赤面したり、身を緊張させて硬くなったり、言葉を詰まらせたり、周囲の人から見つめられているのを強く感じたり、出たくないのにみんなの前に引き出されたりするときに強く感じる不快な感情が起こる。これが恥の感覚である。みんなの前に出ると、自己像が傷つき、自己評価が低下するように感じ、自分はつまらない人間、価値のない人間という感覚を与えられる体験である。対人恐怖症の基底にある心情であり、また引きこもりの基底にある心情である。
 子どもを塾に通わせたり、音楽、運動をさせたりしている親に、経済的にも苦しいのに、なぜそのように子どもにいろいろやらせているのかと尋ねると、「いや、世間並みにやっているだけです。特別ではありません」「特別なことをすると、世間から注目されて困ります」という答えが返ってくる。子どもはなぜ通っているのかと尋ねられると、「みんなが通っているから」という。「みんな」「世間並み」がキーワードになっていることがわかる。
 世間の目、仲間の目が重要であり、判断の基準となっている。その目からずれなければよいが、ずれると自己評価が変化し、恥ずかしい感情が起こる。先ほどの引きこもりの本人も親も、行動が「世間並み」でないことが辛いのである。また、自分が人間として評価されるのも世間の目である。「そんな恥ずかしいことはできない」「世間に申しわけない」ということも少なくない。極端な場合、世間の目によって自殺に追い込まれる人もある。「日本人として恥ずかしい」「日本人として恥ずかしくないようにしよう」ということは日常的なことがらである。この恥の感覚は、「人間としての自分」をゆすぶる感覚である。  恥を対人関係の中心的な行動原理としてきた日本においては、周囲の価値にあわせることが大事になる。自己の主義や主張と一致しなければ取り下げるか、破廉恥を覚悟でやることになる。一般的には合わせることが多いので、調和的でおとなしい行動として示される。世間体のルールや圧力を破ると強いバッシングが起こる。世間体の方法によって私たちの行動も価値観も変化する。世間体はより大きな世間体(と思っているもの)に合わせるので、揺れる波のように、引いたり寄せたりして大きな圧力となる。
 現代の日本はこのような恥に根ざす行動は変化しつつあるのだろうか。恥知らずの行動が多くなり、破廉恥な行動、厚顔で、強引で、わがままで、他人に対する優しさが低下し、搾取的な行動が多くなった。周囲に合わせる調和的な行動が少なくなり、自己中心的に動くようになったようにみえる。これは私たちの世界や原理が変化したことを示すのだろうか。私にはそうは思えない。破廉恥な行動は増加しているが、その判断基準は同じように、世間体と恥を軸としている。プラスの方向に示されているか、マイナスの方向に示されているかが違っているだけである。現象的には違うようにみえるが、対人関係の原理として変化はあまりない。
 恥の感覚や指導原理は再考され、再々考される必要があるだろう。
執筆者紹介
鑪 幹八郎(たたらみきはちろう)
京都文教大学人間学部教授。臨床心理学専攻。教育学博士。
関心の領域はカウンセリング、夢分析、アイデンティティ研究など。
これまでの著書『恥と意地』(講談社現代新書、1998年)、『アイデンティティとライフサイクル』(ナカニシヤ出版、2002年)など。
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