こころとからだを科学する
教育と医学
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巻頭随筆
第53巻2号 2005年2月
ゆっくり待つこと――子どもは本当に考えていないのか   上田 薫
 たしかに子どもは本当に考えていないかのようにみえる。でも、そんなことがありうるだろうか。子どもにも悩みは多々あろう。乏しいのは考えでなくて、その持続ではないのか。もちこたえねば、むろん深まりはない。しかし、なぜ持続しないのか。私は世の中の“勝負の早さ”こそが問題だと思う。遅ければ負ける、損するとみな思いこんでいる。ゆっくりやればおのずと主体性も生まれるのに、なぜ今の世はこう急がねばならないのか。私はそれがこの世界を崩壊に導く大きな原因になっていると思う。じっくりゆっくりやることこそが、今世紀最高の道徳だといって何がおかしいか。
 もう一ついけないのは、正解をきめてしまうことだ。答えがきまっているのにどうやって考えるのか。正解は決して一つではない。「それをきめるのは君なんだよ。納得いくまでゆっくりやりたまえ」そう言われて考えない子がいるだろうか。子どもはごく自然に考えているのに、親にも教師にもそれがわからない。大人に都合のよい答えを出すのがよく考えるということではないのに、そのあたりがまるで狂っている。考えるのはプロセスだということさえ気づいていない。
 「考えるというのは自分をゆっくりさせることだ」そうなるとその人間のテンポも生きる。ほんものの創造への道もひらける。そうならねば人類は近く、傲慢不遜な自己過信の急ぎ死にしかない。
 近視眼で底が浅いほど、急ぎたがる。ITの力をいくら借りても、主体的思考は充実しない。手がかりが多く、しかも楽に手に入るほど考えは深まらない。考えないのは子ども以上に大人かもしれないのだ。目前の利に走るのをこらえられる日本人が今どれだけいるか。
 静岡市立安東小学校は、私と共にもう40年近く一人ひとりを生かす教育を推進してきた。1年の女児が指名されて立つ。なかなか発言しない。おもむろに皆の関心が自分に集中するのを待って、だれにもわかるように明快な言葉での主張。そのごく自然なゆとりに参観者の一人は眼をうるませていた。また、4年のある学級、活発な話し合いでの相互指名。ためらいがちに珍しく挙手をした子をみんなが助けるように話させる。事の難易を考えながら思いやりをもって適材適所の指名ができる、この水際立った明るい学級集団。ある人は言う「これは先生より上だよ」……。安東小の全国公開の研究会では、日程上教師不在の時間になかなかの自主的学習を見せてくれるというのも評判だ。その個性にみちた積極性は言うまでもないが、なんという気迫にあふれた節度をもつ子どもたちだろう。素直なのに納得しないと動かない。「考えろ」なんて言えば、大人が笑われる。
 いじめもあれば片親の家庭もある。幼い子だって結構苦しみ悩んでいる。教師はすぐそういう子を例外視するが、一見満ちたりた子だって問題はもっている。人間は本当はそう幸せではない、ということを、そして突きつめればだれだってひとりぼっちなんだ、ということを、小さな1年生くらいからしっかり自覚させていくことが肝要ではないか。それでこそほんものの友だちもできる。温かい社会をつくっていくやわらかい心も育っていく。人に対しても自分に対しても、ゆっくり待つことの大切さを知ってこそ、人間は人らしくなっていく。
 目の前で、外国の子が無残に殺されるのを見せつけておいて、君は日本に生まれて幸福だ、感謝しろとは、まさに悪魔の言葉ではないか。子どもにいったい何を考えさせるつもりか。この残忍利己の感覚によって世界は無残に潰れていく。やたらに国益をぶつけ合わせれば弱肉強食そのものだ。子どものほうがちゃんとわかっていると言えば、あまりに皮肉か。
執筆者紹介
上田 薫(うえだ かおる)
1920年生まれ。元都留文科大学学長。社会科の初志をつらぬく会名誉会長。
京都大学文学部哲学科卒業。
1946年文部省入省後、名古屋大学教授、東京教育大学教授、立教大学教授を経て現在に至る。
著書に『上田薫著作集』全15巻(黎明書房、1992〜4年)、『人が人に教えるとは』(医学書院、1995年)ほか多数。
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