こころとからだを科学する
教育と医学
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巻頭随筆
第53巻10号 2005年10月
教師と教育力   吉田章宏
 緊急事態につき、電報とする。「教育力のある教師は教育をよくできる。教師教育は教育力を育てるべきだ」その通り。が、これは虚しい言葉遊びかも知れぬ。「教育力」は目に見えず、その内実も不明なるゆえ。「教育力」なる言葉は、何だか分からない重要なものに、仮につけた名称だ。「力」があれば重いものも持ち上がる。同様に、「教育力」があれば……、という理屈。そもそも「教育力」は社会と時代を超えて通用する「力」か。教師には、そういう「力」が望まれている。が、そのような「力」は果たして在りうるか。例えば、(A)「仰げば尊し我が師の恩」が感涙をもって真心から歌われる「静謐」な社会での「教育力」と、(B)「バーカ、教師だと思っていばるんじゃねえよ」と罵倒される「先公」が「ヤキ」を入れられる「ヤバイ」社会での「教育力」。両者が同一内容で在りうるだろうか。
 「教育力」を求める教育界を取り巻く内外状況の激変は周知。経済的豊かさを追い求めた平和文化国家日本の幻。日の丸と君が代。「豊かな社会」に蔓延する「いのち」の軽視。弱者虐待。ホームレス。交通事故死。自殺率の驚異的高さ。人材派遣業の繁栄。フリーターの増加。所得層の両極化。若者の「生きがい喪失」(神谷美恵子『生きがいについて』2004を推す)。非行・犯罪の低年齢化。少子高齢化と人口減少化。家庭・学級・学校崩壊の同時多発(小野四平『教育亡国を越えて』2001を推す)。学校格差。収賄と腐敗。親の「無理難題」。「嘘とアリバイ作り」の日常化。教師の神経科通い。自殺と犯罪。愚直の稀少化。教師の社会的価値の相対的低下。環境破壊の世界化。IT革命。そこでの「教師と教育力」。
 「教育力」の内実が何であれ、「教師の教育力」のみで今日の「教育問題」総てを解決することは不可能。これは自明。「教育は、はかない」のだ。が、この状況では、教師は全く無力か。いや、決して無力ではない。「はかなさ」を自覚し絶望を潜り抜けたとき、力限られたひとりの教師に何が可能か、と改めて問う。それが「教師と教育力」の今日的問題だ。
 教育(education)の本質は、教育の相手(子ども)を、その生きている古い世界から導き出し(educere)、新しい世界へと導き入れる(educare)、「共に育つ」こと。で、今日も通用する「教育力」とは。生命力。「自ら学ぶ力」。共感力。「たえず子どもに学んでいく能力」(林竹二)。「柔軟に対応する力」、「謙虚によく見る力」(齋藤喜博)。「世界と自分を他人の目で見ることができる教養」の力(HG・ガダマー)。多様な現実的世界と可能的世界を自由自在に飛翔する豊かな「想像力」。高い志と誇り。絶望と戦う力。「暴力に屈せぬ腕力」も。
 求む、「教育力ある教師」。では、「教育力ある教師」は、どこに、そして、どこから?
 「骨太の」解決案。教育界に最良の人々を「教育力ある教師」の卵として迎え、経済第一主義の経済大国に相応しく、経済的に「桁はずれに優遇する」、そして、思い切り自由に、創造的に活躍できる場を用意する。「少子高齢化社会」の経験豊かな高齢者たちが、「生きがい」と喜びをもって教育に参加する道を開く。老いも若きも幼きも学びあう。何よりも、子どもたちが、尊敬と畏怖と憧れの眼差しをもって、教師を仰ぎ見る状況を醸成し、持続させる。教育界に巣食う「ずるき奴、無気力な奴、無知な奴」が去り行くべき場を用意する。と、「教育力」はおのずと姿を現すだろう。が、この案は実現しない。とすると、それは何故? 「教育力ある教師」はどこから?
執筆者紹介
吉田章宏(よしだ あきひろ)
淑徳大学教授。東京大学名誉教授。専門は、教育の現象学的心理学。著書に『ゆりかごに学ぶ』(一茎書房、1999年)、『子どもと出会う』(岩波書店、一九九六年)、『教育の心理』(放送大学教育振興会、1995年)。田中みどり氏との共編著に『コミュニケーションの心理学』(川島書店、2005年)。
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