こころとからだを科学する
教育と医学
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編集後記
第54巻5号 2006年5月

▼今月号の特集は「発達をどう支援するか」という課題であるが、支援ということは支援する能力のある者が支援を必要とする者を助け、支援が必要でない状態まで持ってゆく努力をすることである。
 もちろん、発達には限度がないので、支援にも限度がないという考え方もあり得るが、少なくとも「普通」の状態に至るまでの支援を必要とする人がいることは明らかであるから、当面そこまでの社会的支援は必要であろう。
▼ところが、一般に支援の必要は判っていても、支援能力がある側の何らかの理由によって、実際には支援が簡単には行われないことが多い。天災などの被災者に対する義捐金の募集にしても、たいていの人は心を動かされるものの、すべての人が献金するわけではない。街頭募金の場合は献金する人が多くても、歳末助け合い運動で郵便局まで出かけるのは面倒だと思う人は多いだろう。
▼支援は、もちろん金銭によるものばかりではない。直接体を動かして人を助けようとするボランティア活動は、もちろん自発的任意的行動であり、多くは無償の行為であるが、それが完全に無償でなければならないというわけでもあるまい。最小限の交通費とか弁当代くらいは相手から出していただくという場合もあろう。しかし、なかには無償どころか、いくばくかの手出しをしてまで相手を支援することもある。
▼ところで、人はなぜ弱い人に対して支援活動をするのだろうか。「義を見てせざるは勇なきなり」(論語)か。キリスト教的な罪の意識からでる慈善行為か。それともタイ仏教徒のように、来世の幸せを予約するための積善行為(タンブン)だろうか。あるいはまた、純粋に個人的な憐憫の情によるものだろうか。なかには「支援」を看板にしながら、実は金銭目的とか売名行為をする者がいるかも知れない。しかし、支援を必要とする者は常に存在するし、その人たちを善意や博愛主義だけで支援しようとしても無理である。弱い人への支援が本来、人の善意に発するものであると信じたいが、現実には、効果的な支援を実現するためには、それなりの技術や理論の裏付けを欠かすことはできない。
▼支援を家族内にとどまらず、地域社会や行政にまで広げると、必ずそこには法的な制度や予算などが関係してくる。支援をめぐって、個人的な情と官僚的な建前との間で、どう折り合いを付けるかが問われることになる。  しかし、要は支援する人とされる人とがまったく違う岸に立っているのではなく、たまたま現在、いくらかの体力と税負担能力とボランティア精神があって、これを支援のために使おうとしているのかも知れない。タイ人は来世の幸せを祈るが、現代日本人は、現世の最終段階における支援を確保しようとしているようである。
▼来月号は「病気をもつ子どもへの教育」と、「教師の教育力を高めるには」を特集します。ご期待ください。

(丸山孝一)
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