こころとからだを科学する
教育と医学
慶應義塾大学出版会トップヘ
教育と医学トップヘ
巻頭随筆
第53巻6号 2005年6月
「臨床人間学」の実践   庄司進一
 新聞を開くと殺人事件やテロや事故や天災が続きます。人の死は日常的な出来事となっています。しかし死を少し遠ざけて、タブー視する傾向がなくなったとは言えません。親族が亡くなるとき、幼児はその死の床や葬儀から遠ざけられることがみられます。
 死を手元にひき寄せて日々を省みると、例外のない死を前にあまり意味のない事柄、例えば富・地位・名声・名誉などに心を砕いていたり、真にやりたいこと、生きがいに取り組んでいないことに気づきます。自分の生きがいを追求することは、死を意識して初めてできることだと思います。生きがいの追求に使われた一日の終わりには幸せを感じます。したがって、死を考えることは幸せに繋がります。この幸せの追求が生きる目標である多くの人にとっては、死を考えることが生の教育でもあります。この一連の学習を「生と死の教育」と呼ぶことができます。
 生と死の教育がその重要さの割には多くの人に顧みられてこなかったのには、いくつかの理由があります。一つは、死を考えるのは難しいと敬遠されがちであったこと、二つ目には、気の進まないテーマであったこと、三つ目には、その教育に万人向けの良い方法が見つからなかった、などです。
 この難しい死に万人が認める正解を得る必要はないと思います。多くの人が気が進まないと思うのは、死が直接今の自分に関係がないことだと勝手に決めこんでいるためです。この他人事のように考えている死を自分自身の問題として考える、多様な人々の意見を聴ける機会をつくる、一つの結論や正解を求めない、などの方針は、多くの人に真っ向から死を考える機会をつくることを「臨床人間学」の実践から確信しています。
 この基本的な方針に基づいた教育を一つの地域の医療・福祉・保健施設を多数運営する財団と学校などの教育機関とを連繋させ、組織的に実践していけたらと考えています。具体的には、保健施設を利用する住民、医療施設に入院・通院する患者、福祉施設に入所または支援を受ける障害者・高齢者・患者、幼稚園から大学院までの園児・学童・生徒・学生、自治体の講座などに参加する住民などが色々のプログラムで接し、生と死をボランティア活動などの実践や討論を通して互いに学んでいくプロジェクトです。例えば学童と緩和ケア病棟の患者の接触で、ターミナルの患者には自分の命が幼い子の命へ連続していると考える機会をつくり、学童にはこの世の命の有限性を身近に観る機会をつくります。こうした実践を通して生と死の教育が行われます。
 福祉の先進国の北欧で、高齢者の自殺が多いという事実は介護などの社会支援だけでは人は幸せにはなれないことを明確に示していると思います。生と死の教育が広く徹底して行われることによって、その地域の住民が幸せになる支援ができないかと考えています。生かされるなら二十年くらいの時間をかけ安曇野での実践から「安曇野モデル」を創り上げたいと考えています。
執筆者紹介
庄司進一(しょうじ しんいち)
医療法人・城西医療財団・城西病院病院長代行(副院長)。筑波大学名誉教授。専門は、神経内科学、医学教育、医療倫理教育、臨床人間学。東京大学医学部卒業。信州大学助教授、筑波大学大学院教授などを経て現職。著書に『生・老・病・死を考える15章』(朝日選書、2003年)、『筋疾患の診断と治療』(永井書店、1988年)など。
前の号へ 次の号へ