自慢高慢

 「自慢高慢バカのうち」。
 と、子供のときに戒められた。たしかにその通りで、私もバカと思われたくないのは山々であるが、ところが、したい自慢はやはりしたい。先日、私は六大学野球の始球式に出て、神宮球場のマウンドからストライクを投げた、といって新聞にほめられた。どうもその話を書いて吹聴したいのである。七十七歳という自分の年を省み――また教育者と見られている私として――どんなものか、と色々考えて見たが、やはり書いて『新文明』に投稿したくなった。
 三月の終りか四月の始めであった。慶應の当時の野球部長から電話があって、今年は慶應が六大学の当番校で、慣例上塾のものが始球式に投げなければならぬが、ということで、私に出てくれないかという。その時私は珍しく風邪を引き、数日来臥床していたのであったが、電話を取り次いだ妻に「承知した」と即答した。妻は驚いたようで、大丈夫か、ときいたが、結局私のいう通り電話に答えた。
 始球の日は四月十日である。その二三日前に風邪は直って私は離床した。当日は薄曇りの日であった。かねて十二時頃までに神宮球場に来てもらいたいということであったが、適時に『新文明』の和木君が迎えに来てくれ、また、野球部からもマネジャーが二人、ボールとグラヴとミットを持って来てくれた。これは、球場へ行く前に、試みに二三球投げて見たいから、と頼んで置いたのである。早速広尾の私の家の門側に出て、グラヴを穿め、マネジャーの一人にミットを穿めてもらい、距離を測って投げて見た。第一球も第二球も捕手にとどかず、それでバウンドになったが、第三球あたりから球は音をたてて捕手のミットに収まった。「どうも有難う」と匆々肩ならしは切り上げて一緒に球場に行く。
 グラウンドへの出入口まで降り立って見ると、球場では入場式が終って、選手は退場するところであった。各大学の選手には顔見知りのものが多い。青年等は、出入口に立っている私に脱帽して挨拶して出て行く。何時もはスタンドから見下ろしているのが、同じ地面に立って見ると、彼等は皆な頼もしい大男に見えた。
 やがてグラウンドの地ならしがすみ、黒い土の上にバッターボックスの白線が引かれ、守備の東大選手が位置に就くと、ラウドスピーカーは「これより元慶應義塾大学塾長小泉信三氏による始球式が行われます」とアナウンスする。拍手が起った。(一寸声を出すものもあった)。紺背広の制服の審判が私を迎えに来る。その人に導かれて投手板の方へ歩む。私は空襲の負傷で脚が利かないから、ステッキをついてその後に従う。観衆の目を意識して、もっと颯爽と歩きたいものと思ったが、意の如くならない。人が見ればヨタヨタしていたことだろうと思う。マウンドに着く。審判は「プレー」をかけましたらお投げ下さい、といって、純白のボールを私にわたした。そばに立っている東大の投手は、この日慶應を破り、また全シーズンを通じて東大チームを重からしめた好漢井手であったが、私は携えたステッキを彼れに托し、マウンドに立った。ネット裏の人々の顔が見える。
 たしかに慶應義塾創立百年式典の演壇に立ったときほどの興奮は感じた。そうして、恐ろしくホームが遠方に見えた。投手板からホームプレートまでの規定の距離は六〇・六フィート、即ち約十間である。十間の距離に球を投げることは私にとって難事でない。それが遠く見えたのだから、私が硬くなっていたことは争えないと思う。一寸考えた。暫く野球の球を握らないから、指が締まらず、スナップが利かないだろう。遠目の(右打者に)高い球を投げるくらいのつもりで、丁度ストライクになるのではないか。と思っていると、審判が高く右手を挙げ、ビックリするような大声で「プレーボール」と叫んだ。私は右足に堅いプレートを踏み、投げた。一瞬、とどくかな、と思ったが、球はベースの上、打者の膝のあたりを通過した。スタンドに一斉に拍手が起り、歓(?)声を揚げるものもあった。私は学校の試験がすんだ少年の気持を味わった。その時の打者は塾のショートの大瀧で、たしかにバットを空振りした筈であるが、彼れの顔も動作も、私の目には入らなかった。
 私はマウンドを下り、人々の拍手の中に、殊に慶應ベンチの前で、島崎部長前田監督を始め選手等の笑顔に迎えられ送られつつ退場した。退場すると、忽ちスタンド階下のロビーで記者諸君に取り囲まれ、色々質問された。どの顔もコニコしている(と、私には見えた)。そのインタヴュウが翌日の新聞記事になった。実はそれが引用したくてこの文を書くのである。
 先ず毎日新聞、当日四月十日の夕刊である。入場式の次第を報じたその後に、記事は続けていう。
 「開幕第一戦慶大対東大は午後零時十五分開始。小泉信三元慶大塾長の始球式の一投は内角いっぱいのストライク。大きな拍手がまき起って、八週間にわたるリーグ戦は開かれた。」
 これが翌日の新聞となると、もっと詳しい。
 『朝日』はスタンドという欄に「小泉さん見事な投球」とゴヂックで表題して左のように書いた。
 「○小泉信三氏が春の東京六大学野球リーグの始球式に登板した。『ホームまで球がとどくかなあ』の声がスタンドから出たが、その心配は無用だった。
 東大の松林捕手のミットをじっとみつめ、大きくワインドアップして投げた。内角にはいる見事な、七十七歳の老体とは思えない好球にスタンドはドッと拍手がわいた。テニスで鍛えただけに堂々たる投球ぶりだった。もどってくるや『やあ――、マウンドへいってみると遠いもんだね。キャッチボールは学生のころからやっているが、きょうも始球式の前に慶大部員を相手に三球ほど投げてみたよ』と自信はあったといわんばかり。」
 『サンケイ』は「みごとなストライク」と題してこう報じた。
 「神宮球場では小泉信三氏(元慶大塾長)の始球式でプレーボール。小泉氏は二、三日前から自宅に慶大の野球部員をよんで熱心に練習したとあって、この日はみごとなストライク。七十六歳の高齢、足の不自由な先生の姿を心配そうにながめていた慶大、東大ナインも、いっせいに拍手。」但し二三日前から練習したというのは少しオーヴァーで、真相は前記の通りであった。
 東京新聞は私が「超スローボールながら見事なストライクをなげて拍手をあびた」といい、更に「ネット裏の関係者は『始球式で正真正銘のストライクを投げたのは始めてだろう』とみなビックリ。もっとも慶大OBの話では『小泉氏は塾長時代ときどき慶大グラウンドに現われてキャッチボールをしており、腕はなかなかたしか』とのことだった」とある。すべて評判は上乗である。
 邦字新聞のみではない。ジャパン・タイムスもこの事件を報道した。曰くFormer Keio University President Koizumi received a loud applause from spectators when he officially opened the series by hurling a perfect strike from the mound.
 私はこの記事を誰れかアメリカの友人に知らせたく思っている。
 先ず一寸右のような具合である。
 私も学生時代は運動選手として時々新聞に名を出されたが、当時熱中したのはテニスであって、野球選手の経歴はない。ただ同じく球を扱う競技であるところから、当時のテニスの選手は大抵野球もやった。ただほとんど六十年をへだてた後年に再び新聞のスポーツ欄で、しかも野球の投球で、ほめて貰えるとは真に望外の仕合せであった。こんな名誉は、当人が黙し、他人が語ってくれると奥床しくて好いのであるが、どうもそれを待ってはいられないから、つい自分で吹聴するような始末となってしまった。読者幸いに諒せられたし。
 追記すると、日ならずして六大学リーグから記念品として卓上の置き物を贈られた。径二〇センチほどの木製小円盤の上に、昔の軍隊の叉銃のように三本のバットを組み、その上に私の投げたボールを載せるようになっている。その球には、証明のためか六人(六大学代表?)の人の署名があり、球の革の表には、特にニスが塗ってある。私は欣んでそれを受け、客間の一隅の卓上に置いた。それは何か、と問うものがあったら手柄話をしようと思っているが、中々人はきいて呉れない。世に心利きたる人というのは少ないものである。
(『新文明』昭和40年8月号)
『練習は不可能を可能にす』より
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