慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第102回──三田評論 2015年8・9月合併号    
 

三田通り周辺

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾大学看護医療学部教授)  
     
 

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 慶應義塾が三田に移転したのは明治四(一八七一)年のことである。前年チフスにかかった福澤先生は、病後芝新銭座の土地が「何か臭い様に鼻に感じる」ようになり、また塾舎も狭隘になっていたことから、適当な土地を探したのであった。そして、島原藩の中屋敷を見出し、入手に至ったのである。


 今でも塾の人達の会話に、「山の上」とか「山をおりる」という言い回しが出てくるように、高台にある。先生もこの高台を気に入っていて、『福翁自伝』の中で、「海に面して前にさえぎるものなし、空気清く眺望佳なり」と記している。また、詩人西脇順三郎は、海の眺望だけでなく、稲荷山から白金方向を見ると、白金の高台に聖心女子学院の赤煉瓦が見えてイタリアの風景画をみるようであったと回想している。


 一方で、高台の突端にあることで山の下の三田の街との有機的連絡は断ち切られており、「学生街を構成する地理的条件が欠けている」と、都市社会学を専門とし、後に塾長になる奥井復太郎は論文「学生街の社会的考察」で指摘したことがある。


 とは言え、確かに、例えば早稲田と比べると学生街の様相は異なるが、多くの塾員の記憶の中に、その時代時代の三田通りをはじめ、三田界隈の情景が残っている。


洋食店とのこめし屋

 義塾が移転した当時の三田は、寂寥としており、三田通りには、未だ店も余りなく、その向こうには薩摩原と呼ばれる原っぱが草茫々と広がっていた。


 三田通りとは、札の辻から現在の東門(かつての正門、幻の門)を左手に、東京タワーを正面に進み、赤羽橋に至る通りのことである。その後、義塾の発展と共に通りも賑やかさを増すようになる。


 獅子文六は、普通部生の頃の登校の様子を『ちんちん電車』で次のように記している。


 「東京中の電車停留所で、ここ(札の辻)ほど馴染みの深いところはない。国電の田町駅が開通するまでは、慶應義塾に通うために、必ずここで降り、ここで乗った。今のように定期券はなかったが、品川から学生労働者割引時間内に乗って、往復券を買うと、よほど安いものだった。」


 「札の辻は慶應義塾の勢力圏で、(略)そこは三田通りのはずれであって、中心は学校の正門前附近だった。豊前屋という洋酒食料品屋や西洋洗濯屋があったが、福澤諭吉の出身地を屋号としたのである。無論文房具店や書店もあったが、塾生の最も出入りしたのは洋食屋で、食道楽加藤、木村屋、東洋軒と三つあった。」


品川、新橋駅間に、田町駅が出来たのは明治四十二年のことで、丁度獅子文六が普通部生の時である。以来、駅からの通学路と共に、学生相手の町も広がって行った。


 三田通り界隈で、塾員の回想に出てくるものは、その時代によって、飲食店、書店、質店、ビリヤード、麻雀はじめ多岐に亘るが、明治から昭和の戦前にかけての塾員の三田時代の回想によく出てくるのは、獅子文六が挙げたような洋食店である。


 そして、それ以上に、昭和十年代に至るまで広い年代の回想に出て来る飲食店が、「のこめし」、つまり竹の子ご飯屋である。


「山十の筍飯に至りては、真に名物の名に背かぬ美味い物で、幕末以来数十年間継続せる老舗、独特の筍貯蔵法によって、冬期なお新鮮の物を食わせる。(略)いぶせき細長い、奥深い家だ。簡単なる腰掛に恰も電車に乗ったように向い合って坐り乍ら、江戸時代の気分に満ちた筍飯を喰べるのも、又一しおの風雅を覚える。」(東奥逸人著『三田生活』大正四年)


 箸箱のような長細い店で、洋食店と違い値段も安い。「気取りやの塾生は時々その前に行って、そびれてしまうことがあるが、心中少なからずこの筍飯に恋慕しているのである」(河原妙二箸『慶應気質』大正七年)と親しまれていた。


 慶應義塾が三田に移転したのは明治四(一八七一)年のことである。前年チフスにかかった福澤先生は、病後芝新銭座の土地が「何か臭い様に鼻に感じる」ようになり、また塾舎も狭隘になっていたことから、適当な土地を探したのであった。そして、島原藩の中屋敷を見出し、入手に至ったのである。


 今でも塾の人達の会話に、「山の上」とか「山をおりる」という言い回しが出てくるように、高台にある。先生もこの高台を気に入っていて、『福翁自伝』の中で、「海に面して前にさえぎるものなし、空気清く眺望佳なり」と記している。また、詩人西脇順三郎は、海の眺望だけでなく、稲荷山から白金方向を見ると、白金の高台に聖心女子学院の赤煉瓦が見えてイタリアの風景画をみるようであったと回想している。


 一方で、高台の突端にあることで山の下の三田の街との有機的連絡は断ち切られており、「学生街を構成する地理的条件が欠けている」と、都市社会学を専門とし、後に塾長になる奥井復太郎は論文「学生街の社会的考察」で指摘したことがある。


 とは言え、確かに、例えば早稲田と比べると学生街の様相は異なるが、多くの塾員の記憶の中に、その時代時代の三田通りをはじめ、三田界隈の情景が残っている。


洋服店と塾スタイル

  三田界隈が塾の町であることが感じさせるものとしては、洋服店があった。


 今日では、制服を扱う洋服店も少なくなってしまったが、かつては、三田通り沿いに、またその裏手の四国町に多くの洋服店があった。
塾の制服は、他の学校と異なり、詰襟の襟が低く独特のシルエットをもっている。帽子も、角帽は流行らず、いわゆる丸帽が定着した。


 塾生も洋服店もそのスタイルに自負があった。かつては、どの洋服店も、裏面に書き込める時間割表や六大学野球の日程表を載せたカードを宣伝代わりに配っていた。偶々入手した戦前のカードを見ると、「廿五年の経験はよく塾スタイルの真髄をつかんでいます」(原洋服店)、「星霜三十年堅実な歴史と塾服装を共に学びました」(中島洋服店)、「渋味の中にも気品を揃えたる三田スタイル」(佐藤洋服店、現在の佐藤繊維)等と記されている。


 ちなみに、このような塾独特のスタイルは、形式主義、権威主義を嫌う塾の気風から出て来たものでもあるが、そのような一目でそれとわかる身なりは、随分古くからで、それが同じ学生街でも他とは異なる雰囲気を三田界隈に作って来たようである。


 例えば、遡って三田移転当時の回想を見ると、日本橋や浅草辺りまで出かけた時でさえ客待ちの車夫に「三田まで行きましょう」と声をかけられた程であった。それは、帯が兵児帯ではなく角帯であることに加えて、身なりの清潔さにあった。


「毎朝洗濯婆が、十人も御用聞にくる程でした。手織りの粗末なものですが清潔で、どんな貧生でも毎日入浴しないものはない。車屋が直に三田の書生と見る所以である。これらは最も慶應義塾の特色とする所であります。」(飯田三治「義塾懐旧談」三田評論)


 また、既に制服制帽が定着していた大正年間に出た『三田生活』には、制服制帽でなくても、散歩姿の時でも「塾生のスタイルは一見して分る」のだと言い、その理由として「服装は一体に小奇麗なのを用い、垢付かぬ程度に於いて瀟洒を貴んでいる。けれども塾生は柔か物を纏うこと稀にて、……決して贅沢を好まぬ」と説明している。


 このような姿勢は、弊衣破帽の学生が闊歩する他の学生街とは異なる三田独特の情景を作るに至った。作家水上瀧太郎は、昭和十一年、時事新報に寄せた随筆でこう書いた。


 「(一般の人達の学生は)学生らしくしろの要望の中には、決して学問をしろという事は含んでいない。学生は破帽弊衣を身につけろという要望もあるであろう。(中略)慶應義塾は合理主義、文明主義の福澤先生の流儀を伝え、粗野凶暴の学生を排斥する風があり、(中略)学生ならば、ちっとは脱線しても、乱暴しても構わないという考え方が流行らず、学生も社会人の一人なりとする伝統精神が強いようである。しかし、「学生は学生らしくしろ」という世間大衆の眼には、これが気障に見え、お洒落に見え、弱虫に見えて人気を博さない」


 今日では、戦前からの店舗で営業している洋服店は、三田通りから仲通り入って直ぐの佐藤繊維のみであるが、塾スタイルへの自負が今も変らないのは嬉しいことである。


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これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

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