慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

慶應義塾の風景
三田評論表紙
2016年7月号表紙


space今月の特集spaceKEIO PHOTO REPORTspace立ち読みspace三田評論とはspace次号予告space前号紹介spaceバックナンバーspace講読方法space
  メインページ->立ち読み  
  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第100回──三田評論 2015年6月号    
 

金玉均

 
 
 
     
  加藤三明(慶應義塾幼稚舎教諭)  
     
 

12
 
 

金玉均の生涯

 李朝後期時代に、日本を範に朝鮮の近代化を図ろうとした金玉均(キムオクキュン)は、一八五一年二月二十三日、忠清南道公州市で生まれる。本貫(始祖の出身地)は安東で、安東金氏は名門の家柄であったが、金玉均の生家の生活は楽ではなかった。


 二十二歳で科挙に合格するという秀才で、書、詩、絵画、音楽にも優れた才能を持ち、中堅官僚のホープであった。そして世界の情勢を学び、西欧の科学技術や民主的な政治を導入していく開化思想を抱いた。


 当時の朝鮮は、李氏朝鮮王朝第二十六代王・高宗(コジョン)の父・大院君と王妃・閔妃(ミンビ)との権力闘争が繰り返されていたが、いずれにしても専制政治が行われ、清国の朝貢国の立場にあって、鎖国攘夷を行うという旧態依然としたものであった。そこで彼は、明治維新を範として、日本の協力によって朝鮮を近代化し、真の独立を目指そうと志した。


 明治十五(一八八二)年二月から七月にかけて日本に留学し、大阪慶應義塾で学んだ東京東本願寺別院の僧侶寺田福寿の斡旋で、福澤先生と出会うことになる。西洋列強の支配を受けないために、アジア諸国も近代化して独立を果たさなければならないという考えを持っていた福澤先生は、既に明治十四年に二名の朝鮮人留学生を慶應義塾で受入れるなど、朝鮮の近代化を支援していた。金玉均は先生の卓見に感服し、先生は彼の情熱に共感して広尾狸蕎麦の別邸(現幼稚舎)に住まわせ、政府高官、民間の名士などに会見させた。


金玉均
金玉均

 明治十五年九月から翌年三月まで金玉均は二度目の来日をした。同年七月、大院君が、政権を握っていた閔氏一族打倒を画策した壬午(イムオ)事変が起こり、日本公使館員、日本人軍事顧問などが殺害された。その結果、日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問としての再来日であった。この時、福澤先生の尽力で横浜正金銀行より朝鮮政府への十七万円の借款を得ている。さらに彼の求めに応じて、朝鮮改革の顧問として、福澤の門下生牛場卓蔵、井上角五郎を遣わしている。
井上は、『漢城旬報』という朝鮮初の新聞を発行し、漢字ハングル混じりの新文体を提唱した。


 明治十六年六月、国王の国債委任状を持ち、三百万円の借款を得ようとして三度目の来日を果たす。先生の紹介で知己を得た後藤象二郎等が支援するが、閔妃の妨害や日本政府の非協力によって借款は成功せず、失意のうちに翌年五月に帰国した。


 金玉均はじめ開化派は、平和的方法による改革をあきらめ、清国を頼って守旧的な事大政策をとっていた閔氏政権打倒のため、日本軍の支援によるクーデターを実行した。明治十七年十二月四日、郵征總局(ウジョンチョングッ)(近代的郵政業務を取り扱うために設置された官庁)の落成式で、政府の要職を占めていた閔氏一族を殺害した甲申(カプシン)事変である。
清国への朝貢廃止、門閥の廃止と人民平等の権、窮民保護、不正官吏の取り締まり、地租改正というまさに近代化の政策が発表されたが、清国軍の介入により、政権は三日で終わってしまった。


 クーデターに失敗した金玉均は、十二月十一日仁川を出港し、十三日に長崎へ着いた。十二月下旬に東京へ赴いた金玉均は、三田の福澤先生を訪ね、狸蕎麦の別邸に匿われた。その後は、朝鮮からの刺客から逃れるため、岩田周作と名乗り、日本政府の庇護を求めたが、外交上の紛議を懸念して国外退去命令を出すなど彼を厄介者として扱うようになり、横浜、関西、小笠原諸島、北海道などを転々とした。その間、先生を始め、犬養毅、尾崎行雄、朝吹英二、井上角五郎などの門下生は、生活資金の援助を惜しまなかった。


 明治二十七年三月二十八日、金玉均は朝鮮、清国両政府の奸計によって上海に誘い出され、刺客洪鐘宇(ホンジョン)によって暗殺されてしまった。
遺体は朝鮮に運ばれ、切り刻まれて各地で晒しものにされた。


line

 

これまでの史跡めぐり
本連載は終了しました。
バックナンバーをご紹介しています。

第102回
三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
武藤山治


2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
大講堂


2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
神津家の人々


2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

第93回
関東大震災とキャンパス
──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

第92回
堀口大學


2014年7月号掲載

第91回
陸上・水上運動会の変遷


2014年6月号掲載

第90回
平和来
──卒業二十五年塾員招待事始夫


2014年5月号掲載

第89回
望郷詩人──南紀の佐藤春夫


2014年4月号掲載

第88回
下田グラウンド


2014年3月号掲載

第87回
予防医学校舎と食研
──空襲の痕跡


2014年2月号掲載

第86回
新田運動場


2014年1月号掲載

第85回
越後 ──西脇順三郎と吉田小五郎


2013年12月号掲載

第84回
修善寺 ──幼稚舎疎開学園


2013年11月号掲載

第83回
神宮球場


2013年10月号掲載

第82回
富士見高原
──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


2013年4月号掲載

これ以前の連載はこちら

 
 
   
line  
 
 
 
  12  
 
TOPへ戻る
 

 

 
Copyright (C)2004-2010 Keio University Press Inc. All rights reserved.