三田キャンパスの西校舎のある崖上に、終戦までは、「大講堂」、または「大ホール」と呼ばれていた建物があった。
大講堂建設
大正期に入り、塾生の増加などから、三田山上の施設拡充は急務であった。図書館旧館と同じ曾禰中條建築事務所の設計で、大正四(一九一五)年四月に竣工した大講堂は、ゴシック様式の鉄骨煉瓦造り三階建て、建坪二百二十五坪、収容人員は約二千人。立ち席を加えると約二千五百人が一堂に会せる、東京でも屈指の規模であった。建築費七万円は、福澤桃介から二万円、森村豊明会から五万円の寄付を受け、付帯設備費一万五千円は義塾で賄った。図書館旧館とともにアカデミックな雰囲気を醸し出す、義塾のシンボリックな建物であった。
採光のため北、東、南の三方に側窓が設けられ、さらに屋根に屋窓を開き、その下方天井の中央に長さ約七メートル、幅約三・三メートルの長方形のステンドグラスがはめ込まれた。座席は全て長椅子で、一階は移動可能で、二、三階の桟敷席は固定式であった。舞台中央の壁面には、同九年に塾員成瀬正行が寄贈した、和田英作による福澤先生の演説姿の全身肖像が掲げられていた。高さ三・六メートル、幅一・八メートルの大額であった。
同年六月六日に挙行された開館式で当時の鎌田栄吉塾長は、福澤先生が始めた三田演説会の伝統を語るとともに、その会場である三田演説館の難点であった収容人員の少なさに触れ、一度に多くの聴衆を集めて講演できる大講堂の完成を、「実に欣喜に堪えませぬ」と大いに喜んでいる。
寄付者である福澤桃介は、発電事業など多方面で活躍した実業家で、福澤先生の娘婿。森村豊明会名義で寄付をした森村市左衛門は、福澤先生の考えに共鳴して貿易の先駆者となり、後の森村商事となる森村組や日本陶器(現ノリタケ)、東洋陶器(現TOTO)などを設立した実業家である。
大講堂に登壇した人々
この大講堂の完成によって、入学式、卒業式、その他大学の主な式典はすべてこの大講堂を使用することで用を弁じた。加えて、ここを会場にして催された講演会、音楽会、演劇などは、知的刺戟に乏しかった当時の市民にとっても、格好の文化センター的役割を果たすホールでもあった。「今夜は、余所行きを着た若い女性が多いね」、「慶應の大ホールで演奏会があるからでしょ」という会話が、三田の商店街で交わされたそうである。

竣工間もない間もない頃の大講堂正面
落成後最初の演奏会には、イタリアの歌手ザルコリーがその美声を披露している。また大正五(一九一六)年六月に、アジア人初のノーベル賞受賞者であるインドの詩人タゴールが講演したのも、この大講堂においてであった。
世界的科学者アインシュタインの講演は、同十一年十一月十九日の午後一時三十分に開演した。アインシュタインは当日朝から刺激物やコーヒーや紅茶をとらず、来客もできるだけ断り、平静な精神で机に向かって講演内容の構想を練っていたという。ただし、その構想は簡単なメモ書き程度のものだったらしい。というのも、前日に理論物理学者である石原博士が通訳をスムーズに行うため、事前に大まかな講演原稿の用意を依頼したところ、アインシュタインはこう答えているからだ。「前もって原稿を作っておくと思想が固定していけない。やはり聴衆の顔を見てその場で自由な心持ちで講演したい」(金子務『アインシュタイン・ショック』岩波現代文庫より)。

大講堂内部(音楽会の様子)
壇上に立ったアインシュタインの前には、大ホールを埋め尽くす学生、市民、慶應義塾の関係者ら、およそ二千数百名の聴衆がいた。二階の招待席には、文部大臣就任直後の慶應義塾前塾長鎌田栄吉のほか、土星型原子モデルの提唱者である長岡半太郎をはじめとする戦前の日本を代表する物理学者たちの姿も見られた。四時半までの約三時間、ジェスチャーを交えながら「特殊相対性理論」の説明を行った。一時間の休憩の後、再び五時半からおよそ二時間かけて今度は「一般相対性理論」について講演した。当時の読売新聞によると、聴衆はアインシュタインの「金鈴を振るやうな音楽的な」声に酔わされ、最後まで静かに、熱心に聞き入っていたという。
海外からの文化人だけでなく、芥川龍之介や有島武郎などが満場の聴衆に語りかけたこともあった。加えて塾外の著名人の他にも、義塾で教鞭を執っていた劇作家の小山内薫が、義塾大学演劇研究会主催の講演で、築地小劇場の旗揚げ宣言を行ったのも大講堂であった。塾員で作家・俳人の久保田万太郎が、亡き小山内を偲んで、「しぐるゝや 大講堂の赤れんが」という句を残している。師との別れの悲しみを雨に濡れる大講堂のレンガに重ねて詠んだこの句は、三田の図書館旧館横の文学の丘にある石碑に刻まれている。塾生たちもいつからかこの講堂を「大ホール」と呼び、課外文化活動の華やかな発表の場にもなった。
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