福澤先生は、三回目の洋行を終えた慶応三(一八六七)年『西洋旅案内』という小冊子を出版した。その書に「災難請合の事 インシュアランス」という項を設け、生涯請合、火災請合、海上請合、すなわち生命保険、火災保険、海上損害保険の概念を我が国で初めて紹介した。さらに明治十三年に発刊された『民間経済録 第二編』の「第二章 保険の事」において、より詳細に生命保険について解説し、その有益性を説いている。そして、福澤先生は一個人として外国会社と保険契約を結んだ我が国最初の人でもある。
福澤先生の勧めによって生命保険の考え方を取り入れて最初に施策を行ったのが、福澤先生の教え子・早矢仕有的が開いた輸入商社丸屋商会(丸善の前身)である。明治七(一八七四)年に社内制度のひとつとして「死亡請負規則」を制定した。これは、従業員が在職中に一定の金額を積み立て、万一死亡した場合は、相応の金額を残された家族に給付というまさに生命保険そのものであった。
そして、その考え方は同じ福澤先生の門下・阿部泰蔵に引き継がれていく。
阿部泰蔵と明治生命
阿部泰蔵は、嘉永二(一八四九)年織田・徳川対武田の戦いで有名な長篠から国道二五七号を南東に進んだ所、奥三河の八名郡下吉田村(現愛知県新城市下吉田北新戸)の医業を営む豊田鉉剛の四男として生まれ、十二歳のとき吉田(豊橋)藩医阿部三圭の養嗣子となる。
現在も十八世紀中頃に建てられたという生家が残っているが、現住の方の意向により、詳細をお伝えすることができない。
元治元(一八六四)年江戸に上り、蘭学そして英学を学んでいたが、慶応四(一八六八)年一月慶應義塾に入塾し、翌年には合衆国歴史会読、窮理書素読の講座を担当するまでになった。明治三年、大学南校で教鞭をとり、さらに文部省に出仕し、再び慶應義塾に戻って教授となっている。
明治十二年に荘田平五郎、小泉信吉と保険会社創設の協議を始め、同十四年七月九日明治生命保険会社が設立された。『阿部泰蔵傳』に記されているところの「わが国最初の科学的生命保険会社」である。十一名の発起人の内、小幡篤次郎、阿部泰蔵、荘田平五郎、西脇悌二郎、奥平昌邁、朝吹英二、肥田昭作、早矢仕有的、中村道太と九名が慶應出身者であり、阿部が頭取に選任された。
明治生命が開業したのは、京橋区木挽町二丁目十四番地(現中央区銀座三―十四―三、歌舞伎座の裏)の煉瓦家屋の二階三室で、この場所は福澤先生が設立に関わった明治会堂別館が建ち、明治十三年十月からは専修大学の前身、専修学校が開業している。今はここに「専修大学発祥の地記念碑」がビルの隙間にある。
人の死を商売の具とする抵抗感や血縁・地縁の相互扶助で行われていたことを近代的な会社組織で行うことの難しさがあったと想像されるが、福澤先生が説いた西洋近代思想の自助の精神を学んだ門下生グループ、荘田平五郎を通じての三菱グループ、早矢仕有的を通じての丸善商会および貿易商社グループ、交詢社グループの支持によって生命保険事業は軌道に乗った。
阿部は、東京倉庫(現三菱倉庫)取締役、丸善商社取締役、日本郵船監査役、東京海上保険会社取締役、明治火災保険会社取締役会長、さらに社団法人生命保険会社協会理事会初代会長などの要職に就いた。
大正十三年、七十五歳で逝去。葬儀は阿部家の菩提寺であった白金の松秀寺で行われ、当寺の墓地に埋葬されたが、昭和十一年長男圭一の逝去を契機に多磨霊園に移された。多磨霊園正門近く、慶應義塾大学医学部納骨堂に向かい合って「阿部家之墓」(1区1種2側11番)と刻まれた墓石を目にすることができる。

明治生命館 二階会議室
泰蔵逝去後のことになるが、昭和九年三月、前歌舞伎座(第三期)、日本銀行小樽支店(現金融資料館)を手がけた東京美術学校(現東京藝術大学)教授岡田信一の設計によって明治生命本社(千代田区丸の内二の一の一)が完成した。昭和二十年から同三十一年の間は、アメリカ空軍極東司令部として接収されていた。
日比谷交差点から日比谷通りを第一生命館、帝国劇場、東京會館と辿って行くと、馬場先門交差点角にコリント式の列柱を配した古典主義様式の建物を見ることができるが、これが平成九年に昭和期の建物として初めて重要文化財に指定された「明治生命館」である。四年にわたるリニューアル工事が平成十七年に完成し、一階店頭営業室、米英中ソによる対日理事会が開かれた二階会議室、応接室、資料展示室などが、土・日曜日に一般公開されている。
平成十六年明治生命保険と安田生命保険が合併し、現在も明治安田生命の本社として使用され、一階には「丸の内お客さまご相談センター」が設けられている。
中村道太
豊橋において阿部泰蔵の知己を得て以来、親戚同様の付き合いをしていた中村道太は、明治生命の設立の発起人の一人となり、創業時は筆頭株主であった。中村は、慶応二年鉄砲洲の福澤先生を訪ねてから先生との交流が始まり、福澤先生著『帳合之法』(簿記の解説書)をよく理解してこれを応用実践し、先生の推薦により丸屋商会の社長格になり、以後豊橋に第八国立銀行を設立し、横浜正金銀行初代頭取、東京米商会所頭取をつとめた人物である。吉田城址の豊橋公園には昭和三十七年に建立された「中村道太翁顕彰碑」(題字小泉信三揮毫)がある。豊城中学校脇の本丸入口の左手にボリュームのある重厚な碑が直ぐに目に入る。
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