慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第96回──三田評論 2014年12月号    
 

学食の変遷

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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今回は、塾生の空腹を満たしている、食堂の変遷について触れてみる。


三田以前の食堂

 芝新銭座時代、塾生が生活を共にした寄宿舎の敷地内には食堂が備えられていた。これがおそらくわが国で初めての学生食堂であると言われている。鉄砲洲の私塾時代も食堂と名付けられた部屋はあったが、実質的には炊事室というべきもので、塾生は各自の部屋で食事をしていた。しかし、芝新銭座に移り「慶應義塾」と命名したときに、福澤先生は、『慶應義塾之記』を印刷配布し、本格的な教育活動を開始すると、同時に食堂の様相も一変する。


 この『慶應義塾之記』には、まず義塾の組織や洋学の重要性を説くなどの本文があり、続いて「規則」と題して門限や、金銭貸借や落書きの禁止などの一般的な取り決めに続いて、別に「食堂規則」として以下の条文が記されている。先生が塾生の食環境に早くから注目していたことが分かるので、少々長文であるが全文を引用する。


一 、食事は朝第八時、昼第十二時、夕第五時と定む。
但し日の長短に従て次第に其差あるべし。

一 、食事の報告、第一柝を聞て各々用意し、第二柝を聞て食椅に就き、第二柝より食終るまで西洋一時を限とす。
此時限に終るゝ者は其次第を食堂監へ申出べし。但し期に後れて食する者は食後自分にて掃除すべし。此掃除とは、自分の用ひし食椅?に其辺の汚穢を払ひ、ふきんにて拭くふ事なり。

一 、自席にて飲食するを禁ず。飲食の器をも坐右に置べからず。

一 、三度常食の外、私に食堂にて飲食するものは必其跡を掃除すべし。

一 、日曜日は業を休み、午後第二時より食堂にて飲食勝手次第。
但し大酒を用ひ妾に大声を発するは厳禁なり。

一 、食椅を食堂外へ持出し或は他の用に供すべからず。但し読書正坐に倦み暫食椅上にて書を読む事は不レ禁。

一 、午後晩食後は、木のぼり、玉遊等「ジムナスチツク」の法に従ひ種々の戯いたし、勉て身躰を運動すべし。

 右の条々相守、若し不便の事あらば互に商議して是を改むべし。

 このことから、全塾生が一堂に会して、早くも椅子に座って食事する欧米風のスタイルを導入していたことが窺える。また、学問だけでなく、運動の重要性に重きを置いていた先生の先見性を表すときに良く引用される一文もこれが初出である。加えて、この規則が先生らによる強制ではなく、問題があれば合議の上変更できることも注目に値する。


三田移転後

 明治四(一八七一)年の三田移転後には、新たに『慶應義塾社中之約束』が配布されたが、それにも次のような「食堂の規則」が掲げられている。


第一条 食事の時刻は、日の長短に従て、時々布告す可し。

第二条 食事の時間は朝夕一洋時半づゝ、昼は一洋時を限る。此期に後るゝ者は食に就くを許さず。

第三条 銘々名前の席に就き、互に席を乱る可らず。食椅を汚す事あれば、其席主の責なり。

第四条 立て食事をする禁ず、腰掛台に乗て食事するを禁ず。

第五条 ドテラ、三尺帯等、不相当の衣服を着し、食に就くを禁ず。

 食事時間を守ることだけではなく、食堂でのマナーや服装にも言及している点が興味深い。

 学生数の増加により義塾は明治三十三年九月に、一二〇坪の大食堂を設け、塾生に三度の食事を供した。
 昭和初期には、大食堂、小食堂の他に萬來舍も食堂になり、二十六番教室の地階には共済会の食堂も加わったが、昭和六(一九三一)年に廃止され、翌七年に塾監局の地下室にテンセン食堂ができた。この食堂は、医学部食養研究所が調理した食事が十銭という廉価で供され、塾生の人気を呼んだ。大食堂の経営は昭和十年に慶應義塾消費組合に移管され、同十六年に組合が解散すると組合の調理担当者であった塚田馨に経営が委託されたが、同二十年五月の空襲で焼失してしまう。


山食(山上食堂)

 山食の初代経営者である塚田馨は、昭和九年から義塾の食堂に勤務し、日吉の赤屋根食堂や三田の万來舎の食堂などでの業務に従事していた。空襲で焼失した食堂を復興すべく、綱町から材木を集めて現在の西校舎付近にバラックの食堂を再建し、食糧難の塾生に食事を提供し続けた。現在、山食の食券と料理の引き替えカウンターの上に、慶應義塾から馨に贈られた感謝状が掲げてある。


 「山食」の名称が定着するのは戦後であるが、その由来には二つの説がある。昭和初期の三田にはいくつかの学生食堂がありこれらはキャンパス外の商店と対比して「山上の食堂」と呼ばれていたが、戦中から終戦直後の時期は塚田の営業する食堂が三田山上唯一の食堂であったため、「山上食堂」との名称が縮まって「山食」になったというものである。また、馨の夫人であり、「山食のおばちゃん」と呼ばれた二代目社長である塚田幸の話では、「焼け跡に寄せ集めのテーブルで、本当に哀れな食堂が出来上がったんです。私、覚えておりますけど、その時に塾生さんが『ここは風が吹くと随分動くね』といって、『まるで山の食堂じゃないか』って。それからだれ言うとなく『山食』というふうになってしまったんです」(『三田評論』昭和六十年八・九月号)との説もある。


学生ホールにあった頃の壁画デモクラシー



慶應義塾からの感謝状と現在の山食の厨房


 昭和二十四年にその跡地に建設された学生ホール内に移り、猪熊弦一郎の壁画「デモクラシー」と共に、西校舎建設で現在北館のある場所に移築後も、多くの塾関係者に親しまれた。平成三年、北館の建設で学生ホールが取り壊され、現在の西校舎内に移転し、「有限会社山食」として営業を続けている。現在、三田キャンパスには、西校舎の「生協食堂」、「山食」、そして南校舎の「ザ・カフェテリア」の三つの学生食堂がある。


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三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

第101回
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2015年7月号掲載

第100回
金玉均


2015年6月号掲載

第99回
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2015年4月号掲載

第98回
阿部泰蔵と門野幾之進


2015年3月号掲載

第97回
日吉キャンパスの遺構と施設


2015年2月号掲載

第96回
学食の変遷


2014年12月号掲載

第95回
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2014年11月号掲載

第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


2014年10月号掲載

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──三田・四谷の被害と復興


2014年8・9月号掲載

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──空襲の痕跡


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──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

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みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


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