上信越道佐久インターチェンジから岩村田に向かい、県道四十四号線を走ること十五分で佐久市志賀の集落に至る。志賀には「神津」姓を名乗る家が多いが、藤原北家の後裔で南北朝時代に伊豆神津島よりこの地に移住したと伝えられる。信州で指折りの豪農であった神津家には、代々九郎兵衛を襲名する黒壁家と十七世紀後半に分かれた赤壁家がある。
黒壁家十九代吉助が弟国助を明治七年に慶應義塾に入塾させてから、神津家と慶應義塾、福澤先生との関わりが始まる。国助は卒業後、帰郷し、慶應で学んだ学問を広めようと文章会・演説会を開設、日曜義塾という私立学校をも設立するが、長続きはせず、兄吉助の佐久商業銀行の経営に加わった。福澤先生との交流は続き、『福澤諭吉書簡集』に国助宛のものが十二通も掲載されている。
岩村田方面から志賀の集落に入る所、左手に船着岩という岩が目に入るが、ここに後述する神津藤平の胸像が建つ。この像は、藤平が村の山林管理・相互扶助を目的として明治四十二年に創設した己酉報徳会によって、昭和三十四年に会創立五十周年と藤平の米寿を記念して建てられたものである。さらに足を進めると、志賀中宿のバス停前に、赤い壁の屋敷が目につくが、ここが最も古い部分で元禄十五(一七〇二)年建築の赤壁家の屋敷である。そして上手(向かって右手)、白壁に黒い木材の屋敷が黒壁家の屋敷である。

神津赤壁家(佐久市志賀)
黒壁家の右横の道は、神津家の菩提寺である法禅寺への参道である。法禅寺には、赤壁家の墓所があり、始祖から年代順に背丈が同じほどの二百近い墓石が広がる様子は壮観である。寺の方の案内で、かろうじて神津藤平夫妻、神津猛の墓石を見つけた。毎年八月一日には神津家親族一同が集まって法要を行うという。
神津邦太郎(慶應元年〜昭和五年)
神津吉助の息子邦太郎も、明治十四年に慶應義塾に入塾し、さらに上海に留学した。そこで欧米人と日本人の体格差から食生活の欧米化、とりわけ乳製品の摂取の必要性を実感し、酪農の導入を実践した。

神津牧場全景
明治二十年、志賀村から上州との県境内山峠方面に約十七キロ、群馬県甘楽郡下仁田町の物見山(標高一三七五m)東斜面の官有地を借用して神津牧場を開いた。数々の試行の結果、乳量は少ないが脂肪分が高く、タンパク質やミネラル、ビタミンの含有量が多いジャージー種を、放牧で運動をさせ、牧草をたっぷり食べさせるという方針になっていった。
明治二十二年からバターを製造しているが、牧草を食べているジャージー種のバターは、カロチン含有量が多く、黄色味が強くゴールデンバターとも呼ばれている。次の福澤書簡のように、神津バターを福澤先生が好んだことは有名な話である。
毎度バタを難有存候。老生事近来ハ頗るバタを好み、毎日一度ハ是非共不用してハ不叶事ニ相成候処、内外諸品之内、唯神津バタの一種のみ口ニ適し、他ハ一切役ニ立たず(明治二十八年四月十四日神津国助宛)此度も二ダース斗御送付奉願候。実ハ之を外国人等へ贈り、日本品之美を誇らんとするの好事なり。従前幾多之外人も、一度ひ神津バタを嘗めて感心せざる者なし。実に愉快ニ不堪次第御座候。(明治二十六年五月十四日神津国助宛)
しかし、理想に走り過ぎた感があり、経営困難に陥り、大正十年に銀行家田中銀之助、昭和十年に明治製菓(現明治乳業)の経営となり、昭和二十年からは財団法人神津牧場により運営されている。
邦太郎は、牧場経営以外、佐久銀行や長野農工銀行の重役、志賀村長、北佐久郡議会議員などの要職につき、地元の発展に力を尽くした。
神津牧場は、現在も三八七haの規模で当初と同じ場所で営まれている。佐久平、軽井沢、下仁田各方面からアプローチ可能であるが、どこからも山道の運転を強いられる。今もジャージー種のみ約三二〇頭を育成方法も変わらずに飼養している。「神津ジャージーバター」も変わらずに販売している。搾乳や放牧場から出入りする牛の行列や牛の赤ちゃんを見学することができるが、無雪期の土日、祭日には乳搾り体験、バター作り体験、ガイドツアーなどの催しがある。濃厚なソフトクリームが食べられる食堂・売店の横には、「神津邦太郎翁像」があり、道を挟んで「我国酪農発祥の地」の碑がある。
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