慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第94回──三田評論 2014年10月号    
 

水上瀧太郎 ──文学と実業の二重生活

 
 
 
     
  山内慶太(慶應義塾横浜初等部長・大学看護医療学部教授)  
     
 

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 「三田文学育ての親」とも称される水上瀧太郎、本名阿部章蔵は、草創期の慶應義塾に学び、日本で最初の生命保険会社、明治生命を創立した阿部泰蔵の子である。明治二十年生まれで、普通部より慶應義塾で学び、大学部理財科を卒業してからは、米国、ロンドン、パリ等で学んだ。そして大正五年に帰国してからは、明治生命に勤務した。


 一歳年下の小泉信三とは、父が共に福澤先生の高弟であったこともあり、御田小学校時代からの親友であった。共に普通部から義塾に学び、明治四十三年に三田文学が創刊された頃には、小泉の他、後の美術史家澤木四方吉らも一緒に文学グループを作っていた。ロンドンでも同じ下宿に過ごしたことがあり、その情景は瀧太郎の『倫敦の宿』によく描かれている。帰国後には、瀧太郎がいつも熱心に薦めていたこともあって、小泉は瀧太郎の妹とみを妻とした。



大阪の宿

 大阪の土佐堀通りから肥後橋を中之島にわたり、川沿いの歩道を左手に暫く進むと、

「三田は変に寂しかった。欄干に近く遥々と見渡される
澄み渡った星空の下を
静に下る川船の櫓の音が
ぎいと冴えて聞えて消えて行く

水上瀧太郎『大阪の宿』より」

 と彫られた石碑がある。


左から、水上、澤木四方吉、小泉信三、松下末三郎 (大正4 年、ロンドンにて)


 これは、昭和六十年に大阪市が建てたもので、脇には「(略)若い頃二年余りを大阪で過ごし、代表作『大阪の宿』では大阪人の気質を描き、その哀愁とまるまる季節の移り変わりを淡々と写した」と書かれた説明板がある。


 かつて久保田万太郎記念講座「詩学」の連続講義で小泉信三が全九回の文芸談をしたことがある。その一回「鏡花と瀧太郎」では、瀧太郎の義理堅く、正義感が強く、そして侠気に富んだ人柄と文学を詳しく語った。
『大阪の宿』についても次のように語っている。

「これは水上瀧太郎が保険会社の支店次長として大阪に滞在している間に、自分の宿泊しておりました旅館、(略)下宿に少し羽がはえたような程度の旅館ですが、その旅館に滞在している間に、出入りする人々、それから大阪の社会で彼れの接触する人々の間に起ったいろいろの事件を書いたもので、その主人公と見える作者は、正義感が強いために、周囲の人々と摩擦も起すし、また周囲の人々から好感も持たれる、そういう意味において、『大阪の宿』は夏目漱石の『坊つちやん』に比すべきものだという人があり、私も尤もと思います」
(小泉信三『わが文芸談』)


水上瀧太郎文学碑(大阪市北区中之島 三丁目中之島遊歩道内)


 瀧太郎が大阪に勤務したのは、大正六年から八年にかけて、すなわち、三十一歳から三十三歳にかけてのことである。そして十五年、第二次三田文学の復刊と共に連載されたのが『大阪の宿』であった。瀧太郎は、この第二次三田文学の精神的主幹として、自らも執筆するだけでなく、多くの作家を世に出し、三田文学の発展に貢献した。



志は高かるべし

 作家瀧太郎は、明治生命に入社するまでは、作家に専念すべきか否か──小泉の表現を借りれば──「懊悩」があった。しかし、入社してからは、作家水上瀧太郎としても会社員阿部章蔵としても、誠実な且つ多忙な二重生活を終生続けた。


 その会社員阿部章蔵としての記念碑が、京王電鉄井の頭線高井戸駅の南側、元は明治生命高井戸運動場であった高井戸ダイヤモンド・テニスクラブの駐車場脇の植え込みにある。石碑の側面には

「阿部専務の御遺徳を顕彰し追慕し記念する為に御遺訓の一を刻んで我々は此の碑を建てる 昭和十六年四月吉日 明治生命保険株式会社 社員一同」


阿部章蔵記念碑(杉並区高井戸東二丁目)

 とある。


 阿部は、大阪から東京本店に復帰後は、昭和十年常務取締役、同十五年専務取締役となっていた。しかし、同年三月二十三日、明治生命講堂での講演の直後、脳溢血にて倒れ、同日逝去したのであった。
 

 この日のことを小泉信三の二女の小泉妙は次のように語っている。

「電話がかかってきて、明治生命で講演中に伯父が倒れたという連絡があったのです。その時父の居場所が分からず、結局家に帰って来た時に母が玄関で伝えました。父が愕然とし、腕を一度振り上げてから力をこめて振り下ろすようにしました。何とも言えない無念さを表す仕草でした。(略)水上が亡くなって心底がっかりしたのでしょう。世の中のこと、学校のこと、そして楽しみも何もかも話し合える唯一の友だったのですから。その後父は、五十肩になってしまい、コートを着るのが無理になり、学校の方々は急に父が弱ったと心配なさいました」(『父小泉信三を語る』)

 この記念碑には、「志は高かるべし 阿部章蔵」と彫られている。これは、急逝の一カ月前に出された明治生命の『外野特報』(同年二月十日)に阿部が寄せた文の題名である。外野とは営業部門のことで、阿部は十三年から外野部門の担当となり、「外野総帥」として陣頭指揮にあたっていたのであった。


 ちなみに、小泉信三が亡くなった翌年の昭和四十二年、日吉蝮谷の庭球部テニスコート脇に、「練習は不可能を可能にす」と刻んだ碑が建てられた。これは、かつて庭球部報に小泉が「故水上瀧太郎は生前その後輩に「志は高かるべし」といったが、この七字は今彼れの記念碑に刻まれて人を励ましている」と書いていたことを庭球三田会員が思い起こしたのがきっかけであったという。

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第94回
水上瀧太郎
──文学と実業の二重生活


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